Negative Edge Trigger | ナノ





「……君が“ヒズミ”かい?」
「そうですよ」
「はじめまして。僕はテオドールという者だ」
「あ、どうも。はじめまして」

降りしきる、豪雨の中で。
緊張感に欠ける挨拶を──交わした。

普段と変わりない歩調で、ヒズミが前に出る。両腕と左脚を切断され、ろくに動くことさえままならないジェノスの前に、まるで守るように立ちはだかった。テオドール、ニーナ、アンネマリーとの距離は五メートルほど。

「それで、さっきの質問なんですけれど」
「? 質問とは?」
「ジェノスさんになんの恨みがおありで?」

ふざけたような声色だったが、ヒズミの顔に笑みはない。今にも飛びかかりそうに身構えるニーナとアンネマリーを、テオドールが手で制した。そして肩に突き刺さった傘を思いきり引き抜いて、道端に投げ捨てる。傷口から滴り落ちる血が、雨に流されて薄らいでいく。

「恨みなんて、別にないよ」
「それはよかった。平和が一番です。では、私は彼を連れて帰りますので」
「そういうわけにはいかないね。僕らの用があるのは君の方なんだよ、ヒズミ」
「私にはありません。寒いので早くお暇したいのですが」
「そう冷たくしないで、話だけでも聞いてくれないかな。せっかくはるばる会いに来たんだ──噂の生存者にね」
「やめろヒズミ! 耳を貸すな! 逃げろ!」

残された右足だけでなんとか体勢を整えつつ、ジェノスが吠える。テオドールはそんな彼を鬱陶しそうに一瞥して、構わずに話を続けた。

「それに僕は、君のダーリンの上司だよ? もう少し口の利き方に気をつけた方がいいんじゃないのかなあ」

ねちっこい下卑た物言いだった。その意味が掴めず、ヒズミは眉根を寄せる。

「ダーリン?」
「そこに転がっているスクラップだよ」
「……こんな男前とカップルに見えますか。嬉しいですね」
「違うのかい? なんだ、こんなにも必死に君を庇うものだから、てっきりそういうアレなのかと思ったんだけどねえ。サイボーグでもやることやっちゃってるんだなあ、ってさ。機械だとさァ、加減とか難しいんじゃない? 毎晩ヒィヒィ無理させられてんじゃないの? んん?」
「いえいえそんな。ちょっと手を繋いだり寝起きにハグしたりするだけの、清い仲ですよ」

受けを狙ったつもりはなかったのだが、テオドールは腹を抱えてげらげらと笑った。ひどく下品で、下賤で──思わず正気を疑ってしまうような笑い方だった。

「まあ、それはいいとして」

そんな狂態を目の当たりにしても、ヒズミは無表情を崩さない。

「上司、というのは、どういう?」
「そのままだよ。僕はヒーロー協会の人間だ」
「……これはとんだ失礼を致しました」
「信じていない目だね」
「協会の方が、彼に乱暴する理由が見当たりませんもので」
「命令違反を犯した新人への、ちょっとした教育だよ」

……ちょっとした。
ちょっとした──と来たか。

「やりすぎなんじゃないですかねえ。厚生労働省が黙っていませんよ」
「命があるだけでも、ありがたいと思ってほしいな。この業界の奥底は、もっと厳しいところだよ」

この男──とんだ道化師だ。
ヒズミはそれと悟られないよう右足を半歩引いて、全身の末端まで神経を研ぎ澄ませる。

「ところで、この素人には“殺されかけるほどの命令違反”というのが一体どういうものなのか、皆目見当もつかないのですが」
「簡単さ。この男は“怪人”を匿っている」
「……怪人……?」
「やめろ! テオドール、貴様──」

ジェノスの右半身が切り取られた。
斬り取られた。
ぞりりっ、という、全身の鳥肌が立つような音。奔った超鋼線がジェノスの鎖骨から斜め一直線を通過して、彼の鋼鉄の体躯を──まるで瑞々しい野菜のように、あっさり刻んでしまう。
硬直しているヒズミへ、テオドールは酷薄に畳みかける。

「そう、怪人さ。不慮の事故に巻き込まれて故郷を失った挙句、発電体質という恐ろしい能力に目覚めてしまった、うら若き、未来のある、かわいそうなかわいそうな──怪人をね」
「………………ッ、きさ、ま」

聞かせて──しまった。
知られてしまった。
聞かせたくなかった事実を。
知られたくなかった現実を。

こんな、あまりにも──残酷な真実を。

「……なるほど」

ヒズミが静かな声を発した。
諦めの混じった、ぞんざいな相槌だった。

「そんなことになっていたんですね」
「なんだ、知らなかったのか。ははっ、どうやらそこのポンコツは、随分と女に甘いガキのようだ」
「本当ですよ。寝耳に水もいいところです」

心底くたびれたふうに、ヒズミは首を鳴らした。
濡れた白髪から、水滴が弾けて飛ぶ。

「とまあ、そういう展開なわけなんだよ、怪人さん。どうする? 大人しく僕たちに連行されるか? それともダーリンを見殺しにして逃げるか?」

砂のようにざらついた、耳障りな声でテオドールが問う。
ヒズミは押し黙ったまま答えない。

「……どうする、って聞いてんだろうがあああ! この化け物があああ!」

痺れを切らしたテオドールが怒鳴っても、ヒズミは微動だにしない。
濁った瞳で、相対する三人を見つめるばかりだった。

「なんだァ? ショックで声も出ないのか? 案外かわいいヤツだな、怪人ってのもさァ。見た目はそう悪くねーし、死骸は鑑賞用に保存しておいてやってもいいかも知れないなあ」
「この──外道が!」

ジェノスが叫ぶ。テオドールは舌打ちし、背後のニーナとアンネマリーに目配せをする。
この喧しいゴミ屑を黙らせろ──と。

二人の指先が複雑に動いて、超鋼線の容赦ない斬撃が再びジェノスに浴びせかけられる。
しかしその糸が──意図が──ジェノスの首を刈ることはなかった。
空中でなにかに跳ね返され、あらぬ方向へ弾き飛ばされた。周囲の建造物がとばっちりを受け、外壁に大きな亀裂を作った。

「……どうするもこうするも」

ヒズミの白い髪が、雨と重力を押し退けて逆立っている。
彼女の全身から、無数の火花が散っていて──

「最初に言っただろうがよ。連れて帰るって」

ナイフで切り上げたような鋭い目が、蒼く、放出されている電気と同じ色に光っていた。

「……とうとう本性を現したか、化け物め。素直に言うことを聞けば、痛めつけずにおいてやろうと思っていたんだけどな。往生際の悪」
「ごちゃごちゃうるせーんだよ」

凄みを利かせた低い声で、ヒズミが遮る。

「べらべらと聞いてもいねーのに長いんだよ。てめーアレだろ、自分に酔っちゃってんだろ。気持ち悪りい野郎だな。来るならさっさと来いって。めんどくせえ」

言葉遣いが、さっきまでの慇懃な敬語からひどくかけ離れた乱暴なものになっていた。しかし口調はあくまで平淡で、平坦で、怒っているだとか苛立っているだとか感情の変化はいっさい読み取れない。違和感がなさすぎることが、逆に違和感を覚えさせるという矛盾。
あのときと──朝焼けのなかで対話したときと、同じような。

そんなヒズミの暴言に反応したのは、テオドール本人ではなく、アンネマリーだった。弾かれた超鋼線を再び指先で操って、無防備に両手をだらりと下げたままのヒズミを肉塊にすべく、死線を体現したかのような武器をまるで生き物のように空中に這わせ──

ヒズミはそれをあっさりと掴んだ。

アンネマリーがそれに反応する暇すら与えず、ヒズミは掌から高圧電流を流し込む。金属製のワイヤーは極細ながら究極まで強化された代物であり、焼き切れることなくその殺人的な電撃をアンネマリーのもとへ伝達した。彼女はびくん、とむしろ滑稽なほど大袈裟に痙攣し、白目をむいて口の端から泡を吹き、そして水溜まりの上に倒れた。
小刻みに全身が震えているところを見ると命はまだあるようだったが、重傷なのは確実だった。

「どうする? まだやる?」

相変わらずの、抑揚のない声音で、ヒズミが言う。
せせら笑うこともしない。
ひたすらに──温度のない、冷めきった無表情。

「……面白れえ」

テオドールが歯を剥き出しにして、懐から手袋を──アンネマリーとニーナが装着していたそれと同じものを取り出して、己の両手にはめた。
戦闘準備。
臨戦態勢。
彼の眼差しに、氷のような闘志が燃え上がる。

「僕が直々に解体してやる。そこのポンコツにも、よく見えるようにな」

──雨はまだ、一向に止む気配を見せない。