Negative Edge Trigger | ナノ





起床したときには既に午後の三時だった。

もともと寝汚い性分ではあったけれど、まさかここまで貪欲に惰眠を食いものにできる女であったとは思わなかった。新しい自分との出会いに乾杯──なんて気分では、到底ない。
のそりと体を起こす。キッチンとリビングを隔てる壁を刳り抜いて作られた小窓から、ジェノスがなにやら作業をしているのが窺えた。いかにも家庭的な匂いが鼻腔をくすぐる。

「ああ、起きたのか」
「すみません。爆睡しちゃいました」
「気分はどうだ? 体調は?」
「あ、えっと、……いい感じです」

ヒズミの返答に満足したのか、ジェノスは軽く頷くと自分の手元に視線を落とした。包丁が俎板を叩く軽快な音がリズムよく聞こえてくる。

いい感じです、とは言ったものの、ほんの少し頭痛がしていた。寝すぎたせいかもしれない。しかしそれでも久方振りに充分すぎるほどの睡眠に埋没することができたのはプラスに働いているようで、体はとても軽い。バッテリーが切れかけて動作の重くなった機械が、エネルギーを得て本来のポテンシャルを取り戻したかのような。

充填したような。
充電──したような。

「食事は? 食べられそうか?」
「ありがたくいただきます。……ジェノスさんが作ってくれたんですか?」
「味の保証はできないが」

料理までこなせるのか、このサイボーグ青年。
もはや家政婦ロボットではないか。
一家に一台。この機会に是非どうぞ──などとヒズミがくだらない深夜通販番組劇場を脳内で展開している間に、ジェノスは手早くテーブルに皿を並べていく。つやめく白飯、豆腐と油揚げの味噌汁、そしてほどよい焦げ目のついた焼き魚。古きよき和の朝食のテンプレートを忠実に再現したラインナップ。朝食というにはいささかおこがましすぎる時間ではあったけれど、細かいことは気にするまい。ヒズミは行儀よく合掌した。

「いただきます」
「……いただきます」

ジェノスもヒズミに倣い、手を合わせる。なんともシュールな光景だったが、そこに水を差すような野暮な不届き者はこの場には居合わせていない。

「そういえば、サイタマさんは?」
「午前中のうちにパトロールに出ていかれた」
「熱心ですねえ」

まあ──クビが係っているのだから、当然といえば当然か。
そう上手く期限ギリギリに事件と遭遇しておまけに解決にまで関われるものかな、とヒズミは内心でうっすら諦観していたのだが、時を同じくして、彼は身勝手な動機で街を襲った変態忍者と激闘を繰り広げていた。もっとも激闘というよりほとんど一方的な鉄拳制裁に近い戦況だったのだが、いずれにせよ、そんなことを彼女が知る由もない。

「何時くらいに帰ってくるんでしょう」
「わからん。戦果次第だろう」
「でも、確か今日って特売日じゃなかったでしたっけ」
「…………………」

ジェノスの箸が止まった。床で面積の狭い薄っぺらな絨毯と成り果てていたチラシを拾い上げ、その内容を確認し、そしておもむろに頬杖をつき顔の前で手を組んだ。

「……あの、どこぞのネルフの最高司令官のようになっていますが?」
「は? ……それは誰のことだか知らんが……くっ、しくじった……俺としたことが……」
「そんな責任を感じることじゃないのでは……」
「しかしタイムセールは十七時からのようだ。それまでに食事を済ませて、スーパーに向かわなければ。……む、卵はおひとり様ひとパックなのか……ヒズミ、お前も来い」
「え? 私も行くんですか?」
「行くなら早くしろ! でなければ帰れ!」
「やっぱりゲンドウじゃねーかよ!」

絶対エヴァンゲリオン見たことあるだろコイツ。
シンジにイライラさせられながらも結局ラストまで真剣に見ちゃったクチだろコイツ。

「冗談だ。お前をむざむざ外に連れて行くような、危険なことをするわけがないだろう」
「明らかにマジのトーンだったじゃないですか……」

げんなりしながら魚をつつくヒズミの姿に──ジェノスがほんのわずか、口元を綻ばせた、ように見えた。
あまりにも些細で、注意して観察していなければ判別できないような変化だった。しかし唯一それを目撃できた立場の彼女は身と小骨との混戦に意識を奪われていて、誰に気づかれることもなく、真相はふたりきりの団欒の中に消えた。



(……雨が降ってきたな)

水滴がジェノスの鼻の頭で跳ねた。最初は申し訳程度の小降りだったのが、みるみるうちに雨脚が強まっていき、やがてバケツをひっくり返したような土砂降りへと変貌した。たまらずジェノスは買ったばかりの食材が濡れないように抱えながら近場の商店へ駆け込み、雨宿りを試みる。
看板が出てはいるものの、どうやら住民の大移動の際に置き去りにされた建造物のひとつだったようで、無人だった。ガラスの戸から内部を覗いてみたが、埃の積もった棚と無造作に積まれたダンボールがオブジェのように鎮座しているのみで、どこか不気味な雰囲気さえ漂っていた。

(先生はもう帰宅されただろうか。……念のため、遅くなる、と連絡を入れておくか)

サイタマは携帯を所持していないので、仕方なくヒズミの通信端末にメールを送ることにした。雨が止み次第すぐ帰る、と、用件だけの簡素な文面を発信して──その探知センサーが、こちらへ接近してくる反応を捕捉した。ごくごく一般的な徒歩のスピードで、二人──いや、三人。
決して速くはいない、しかし欠片の迷いもないしっかりとした足取りで、そいつらはジェノスの前に現れた。

「やあ、ジェノス君。しばらく振りだね」
「…………テオドール」

篠突く雨に打たれながら、テオドールは傘も差さずに立っている。その後ろに控えている女性ふたりも、まるで濡れることなどお構いなしに、鋭い目つきでジェノスを睨んでいる。どちらも病院の会議室で見た顔だった。確か片方は、ニーナという名だった記憶がある。
どう楽観的に見ても、お友達になりに来ました、というような友好の意は感じられない。

「S級ヒーローがタイムセールをご利用とは、意外と庶民的なんだね」
「なんの用だ? 高そうなお召し物が台無しだぞ」
「そう邪険にしないでくれよ。ただの世間話じゃないか。サイボーグがスーパーで野菜だの卵だの、そんな買い物をしているなんて──珍しいな、って。なあ、ニーナ。アンネマリーもそう思わないか?」
「ヒーロー協会というのは、所属する人間の私生活にまで口を出してくるのか?」
「いや、なにも“イメージダウンになるからやめろ”とか、そんな小さいことを言いにきたわけじゃないんだよ。少し気になることがあっただけさ。──その買い物袋の、中身がさ」

額に張りついた前髪を掻き上げて、テオドールは頬を凄絶に歪めた。

「“どう見ても、一人分の量じゃないよなあ”と──思ってね」

そこでジェノスは悟る。
こいつは、既に──“知って”いる!



「かわいい彼女でも、いるんじゃないのかなァ?」



テオドールの台詞が終わる前に、ジェノスは動いていた。常人には視認することすら不可能なスピードでもって、一足飛びにテオドールとの距離を詰める。右の拳を振り上げて、その顔面を殴りつけた。

右腕が肩から離れ、宙を舞ってアスファルトの地面に落ちた。

「……………………!?」

音さえしなかったが、それは明瞭になんらかの攻撃であった。まったく見えなかった。
分離した腕の断面は不自然なほどに滑らかで、まるで粘土細工を細い糸で切ったかのような──斬ったかのような──
糸!

ジェノスが超速的な反射を見せたが、それでも遅かった。
ひゅっ、と風が細い声を上げて、今度は左の肘から先の感覚がなくなった。金属の塊が足元に落ち、水飛沫がズボンの裾に斑模様の染みをつけた。
体勢を立て直そうと力を込めた左脚をも、嘲笑うように持っていかれた。
つんのめって、ジェノスは頭から正面に倒れ込む。
地に伏しながら、彼は見た。ニーナと、アンネマリーのはめている手袋から──レザーのような質感の黒いグローブから、きらりと光るなにかが伸びているのを、確かに見た。

「…………ピアノ線か」
「そんな安っぽいものに見えるのかい? 残念だなあ。これでも随分と、金のかかった武器なんだぜ。鉄をベースにアマルガム技術を応用して金属炭素や数種のレア・メタルを練り上げ、対怪人用に殺傷能力を最大限まで高めた門外不出の超鋼線さ」

得意げに語るテオドールは、買ってもらったばかりの玩具を見せびらかす子供のようだった。

「さて。お遊びはここまでにしようじゃないか、ジェノス君。正直に答えれば、首を落とすのは勘弁してあげよう。……ああ、でもジェノス君はサイボーグなんだったね。首を落としても死ななかったりするのかな。試してみようか?」

それは言外に。
正直に答えなければ首を落とすという──脅迫。
テオドールは無様に転がるジェノスの胸を踏みつけて、低い声で最後通牒を突きつける。

「答えろ。“生存者”は、どこにい」
「ここにいますよ」

──刹那。
飛来した凶器が、テオドールの右肩を貫いた。

「ぐ……っぎゃあああああああ!」

痛恨の悲鳴を上げて、テオドールが尻餅をついた。その右肩からは生えていたのは──傘だった。
コンビニで売っているような、なんの変哲もないビニール傘。その先端の金属部分が完全に貫通していて、そこからじわじわと赤い液体が滲んでいる。
ジェノスが頭を持ち上げ、そして──愕然と目を見開く。
なぜなら。
そこには。
この場にもっとも出現してはならない人物が。

「あなたがた、よってたかってうちの家政婦ロボットになにしてくれてやがるんですか」

──ヒズミが。
傘を投擲した瞬間のままの、右手を軽く前に突き出したポーズで、立っていたのだから。