Negative Edge Trigger | ナノ





寒くて、痛くて、そして白かった。

固い床に倒れ伏した体は、まるで自分のものではないかのように重く、指一本さえ動かせない。ずしりと重く痺れる不快感が全身を蝕んでいて、とても苦しいのに、助けを呼ぶために悲鳴をあげるだけのことも今の彼女には叶わなかった。

そこは体育館ほどの面積を備えていたと思われる空間だった。色彩に乏しく、無骨で無感動で愛想のない、ただただ広いだけの空間だった。天井までは数メートルの高さがあるだろう。今の彼女からは視認できないので、これはあくまで憶測にすぎない。
もっとも、仮に視認できたとして、確認できたとして──正しく把握することなどは、現状、不可能なのだけれど。

なにせその天井のほとんどは崩れ落ち、彼女の周囲に大小無数の瓦礫となって無惨に転がっているのだから。
コンクリート製らしき金属質の鈍い光沢を放つ壁にも蜘蛛の巣を模したような罅が縦横無尽に走っていて、時折どこからともなく地響きめいた不穏な音が滑り込んでくる。この建造物の余命が既に幾許も残されていないことは、火を見るよりも明らかだった。

端的にいえば、崩壊しているのだった。
崩落しているのだった。
倒壊して、倒落しているのだった。

そんな世界の終わりみたいな場所で、彼女はひとりだった。どうしようもなくひとりだった。

同じようにこの“事故”に巻き込まれた人々の断末魔が鼓膜にこびりついていた。親しい者が血にまみれ、首をおかしな方向に曲げている光景も見てしまった。どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
霞がかった意識が殊更こんがらがっていく。

彼女の目線の先には、巨大な機械のようなものが鎮座している。銀色の大きな箱にドラム缶がいくつかくっついたような形状で、そこからおびただしい数の太いケーブルが伸びていた。ボディビルダーの腕くらいはありそうだった。こんな状況下でも電源は生きているようで、ところどころから火花が飛び、ケーブルは眩しいほどの白い光を発していて、彼女の視界をホワイトアウトさせている。
鬱陶しいほどちかちかと、くらくらと、頭が痛かった。

(…………まともな死に方しねーだろうとは思ってたけど)

まさか、ここまで──救いがないとは。
次回作にご期待ください。
彼女は諦めたように目を閉じる。
ひどく喉が渇いていた。三途の川でお茶くらい出してくれないだろうか。どこの業界でも顧客満足を目指すのは大事なことだと思うのだけれど。どうでしょうか?

とりとめのない思考に深く沈みかけた、まさにその瞬間。

これまでの地響きが小鳥の囀りに感じられるほどのすさまじい爆音が、轟音が一帯を激しく揺らした。破壊的な震動は彼女のもとにも届いたが、しかしなにが起きたのかと辺りを見渡す余裕などはとうにない。渾身の力で瞼を持ち上げると、もうもうと土煙の立ちこめているのがわかった。いよいよ雑きわまりない製造法で挽き肉にされるときがきたのかと覚悟を決めかけたが、次いで飛び込んできた声によってその必要はなくなった。

「……ん者を確認。……先生、……を……」
「本当に……がったのか……生きて……」

どうやら、ふたり、いるらしい。男性の声だった。会話しながらこちらへ走り寄ってくる気配がした。足音が自身の傍らで止まり、優しく抱き起こされた。明るい髪色をした若い青年のようだったが、なぜか体を包む感触は石のように硬い。

「微弱ではありますが、生体反応が……、まだわずかに呼吸もあります。大至急、医療機関への搬送を」
「わかった。ジェノス、お前そのまま担いでいけ。俺が道を作る。地上に出るぞ」
「了解しました。お願いします、先生」
「もう大丈夫だからな、すぐ病院つれてくからな、もうちょいがんばれよ、ねーちゃん」

自分に向けられた励ましの言葉。テンプレートな内容のそれをぼんやりと聞きながら、彼女はそのまま気を失った。ぎりぎりまで張りつめていた糸が、ぷつり、と遂に切れたのだった。



…………結果として。
彼女は一命を取り留める。五体満足のまま、短期のうちに回復することになる──のだが。
とある“後遺症”だけが、忌まわしく残る。
それはどこまでもどこまでも異質で、異色で、異端で。
そして無慈悲で、かなり不条理な、非日常の世界へと彼女を引きずり込んでしまう。

悪夢のような、この事件の終結が。
凶夢のような、物語の開幕となる。