Negative Edge Trigger | ナノ





コンビニの袋を提げて帰ってきたジェノスを出迎えたのは、爆睡するヒズミの健やかな寝息だった。
畳まれた布団の上で胎児のように体を丸め、すやすやと眠っている。日向ぼっこに興じる野良猫を彷彿とさせる寝相で、規則正しい呼吸を繰り返していた。

「…………………………」

ワンカートンの煙草とペットボトルが詰まった袋をテーブルに置いて、ジェノスはそっと彼女の傍らに身を屈めた。お世辞にも血色がよいとは評せない顔色で、寝顔は人形のように生気がなく、死んだように睡眠に没頭している。よほど疲れているのだろう──無理もない。

気の済むまで寝かしておいてやろう、とジェノスが腰を浮かしかけたところで、
異変はなんの前触れもなく現れた。

「…………う……ぁあ……」

ヒズミの前髪から火花が散る。ばちばち、と耳障りな音を立てて、乱れ飛ぶ。酸素と二酸化炭素の循環が著しく乱れ、全身が痙攣するように震えはじめる。四肢を引きつらせて、その手が縋るようにシーツを掻きむしる。バランスを崩して布団タワーから転げ落ちたヒズミの痩躯を反射的に受け止めて、ジェノスは彼女の正気を呼び起こそうと声を張り上げた。

「おい、ヒズミ! どうした!」

骨と皮のみで構成された腕を掴んで揺すると、ヒズミの両目が開いた。澱んだ虹彩。濁った瞳孔。まだ半分以上も夢の中にいるような色の双眸がジェノスを捉えて揺れ、振れ、そして、

──絶叫が迸った。

斬るように鋭い、刺すように痛い、抉るように重い、壊すように拙い、沈むように昏い、歪むように怖い、絞めるように苦しい、溺れるように切ない、破裂するような炸裂するような爆裂するような分裂するような断裂するような開裂するような。
そんな悲鳴が。

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」

混乱しているのか、錯乱しているのか、ヒズミはジェノスの手を振り解くように闇雲に暴れた。彼女の指先がジェノスの頬をかすめる。その箇所が、ほんのわずか赤くなった。
逃げるように身をよじる彼女を押さえながら、過換気症候群の発作だろう、とジェノスは当たりをつけていた。そしてそれは正しく的を射ていた。精神的な不安や緊張から過呼吸を引き起こす心身症。それを自分が不用意に刺激したことで、彼女のパニックを誘発した。誘爆してしまった。

やがて彼女の体から力が抜けて、ずるり、と頽れた。床に倒れないよう、ジェノスは抱きかかえるようにそれを支えた。隙間風のような息遣いが聞こえる。裂傷や打撲傷などの応急処置にはいくらかの心得があるが、こういった類の症状に対応できる知識はない。立場が立場だけに、救急車を呼ぶこともできない。ジェノスは異常な発汗を見せるヒズミの額を指で拭って、なるだけ穏やかな口調を心がけながら、言葉を選ぶ。

「…………ヒズミ」
「………………あ」
「大丈夫か? 水は飲めるか?」
「…………さい……」
「なに?」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」

まるで呪詛のように。
譫言のように謝罪をエンドレス・リピートする彼女の顔は、ジェノスからは見えない。

「落ち着け。しっかりしろ」
「………………」
「買ってきた水がある。飲んで休め」
「……ジェノスさん?」
「そうだ」
「…………ああ……」

ヒズミの目に、正常な光が戻った。瞬時に状況を理解したらしく、ゆるゆると緩慢な動作でジェノスから離れ、フローリングに尻をついて布団タワーにもたれかかる。既に呼吸のリズムも脈拍も元通りになっていたが、その顔には疲弊が色濃い。

「睡眠を拒否する理由はこれか?」
「いやはや、お見苦しいところを……」
「見苦しくなどない。はぐらかすな」

さまよっていたヒズミの視線が、ジェノスの頬に固定された。そこには出来たてほやほやの、新品の蚯蚓腫れがあった。

「……それ、私が……?」
「気にするな。大した傷ではない。すぐに治る」

ヒズミの顔が絶望的に歪む。
さまざまなものが入り混じったその表情に最も顕著だったのは、強いて言うならば罪悪感。
次点に恐怖──といったところだろうか。

「ごめんなさい、私が、すみません、私……」
「謝るな。やめろ、やめるんだ」
「ごめんなさい……私、こんな……こんなこと……」

いつもの飄々とした彼女はもはやどこにもいない。
弱くて、脆くて、どう接すればいいのか見当もつかない。
叱られるのを恐れる子供のような。
まったくもって、嫌になってしまうほどに。
どこまでも、人間だった。
女の子──だった。

「……怖がらなくていい」
「あ」
「俺はお前の味方だ。だから、そんな顔をするな」

ヒーローが命を懸けて守るべき、女の子だった。



「それでね、ヒーローが来てね、ばーって! がーって! それでね、あっという間に悪いヤツらをやっつけちゃったんだ! 悪者はみんな銃とか持ってたのにね、ヒーロー勝ったんだよ! すごいキックだったんだ! ぐわーって! すごかったんだよ!」

興奮しきった様子で、少年は身振り手振りを交えて話していた。
壁も天井も白い、清潔感あふれる入院病棟の個室で、少年は自身が経験した大事件の顛末を語っていた。聞き手に徹しているのは大枠の眼鏡をかけた茶髪の若い男──テオドールだった。

事件後のカウンセリングのために、こうして協会の人間が患者と面と向かう時間をとっているのだ。本来ならば幹部クラスの人間が請け負う仕事ではないのだが、彼は「一刻も早く患者たちに安心を届けたい」と述べたうえで、自ら進んでこの場にいる。他の同僚には「仕事熱心なことだ」と揶揄されているようだったが、そんなことは彼にとってどうでもよかった。

「へえ。そりゃすごいな。僕もそこに立ち会いたかったね」
「お兄ちゃんもヒーローなんじゃないの?」
「僕はヒーローを助ける人間なんだ。鉄腕アトムでいうお茶の水博士だよ」
「……よくわかんないや。なにそれ?」

例えが古すぎて伝わらなかったようだ。まあ、テオドール自身もその世代というわけではないのだけれど。

「鉄腕アトムっていう正義のロボットがいるのさ。原子力で動くんだよ。空も飛べるんだ」
「ふーん。……あっ、そういえば!」
「どうしたんだい?」
「ロボットっていえばさ、新しいヒーローにもロボットのお兄ちゃんいるよね!」
「……? ああ、ジェノス君のことか」

二年振りの快挙でいきなりS級認定を受けた期待の新星は、既に話題沸騰しているらしい。

「あのお兄ちゃんも、助けに来てくれてたの?」
「え? いや、彼は今回の事件には関わっていないけれど──どうしてだい?」

テオドールの問いに、少年は素直に回答を口にした。
純粋に。無垢に。首を傾げながら。

「だってあのお兄ちゃん、何回か病院で見たことあるよ? お姫様みたいな格好した女の子と、あとなんかよくわかんないハゲと一緒に病院を歩いてるの、見たもん」

「…………………そうかい」
「だから僕、あのロボットお兄ちゃんも来てくれたのかなーって、思ったんだ」
「そうか。でも彼は忙しいからね、ごめんね」
「ううん! 他のヒーローもかっこよかったから、いいんだ」

屈託なく笑顔を浮かべる少年に、テオドールも口角を上げた。

「さて、そろそろ僕は帰るよ。また来るね」
「わかった! お仕事がんばってね!」
「ありがとう。──鉄腕アトムを退治してくるよ」
「え? 正義の味方なんじゃないの?」
「どうやら、悪い鉄腕アトムがいたみたいなんだ」

ぽかんとしている少年を残して、テオドールは病室をあとにした。後ろ手に扉を締め、くつくつと肩を震わせる。堪えきれないというように──笑っている。

「…………あのクソガキ」

“教授”の遺体を見せろと要求してきたのは。
探るような真似を──していたのは。
そういうことだったのか。

「舐めやがって。出し抜いたつもりかよ」

お姫様みたいな格好の少女というのは、恐らく“教授”の連れている子供のうちのひとりだろう。
間違いない。
あのサイボーグ野郎には、生存者との繋がりがある!

「上等だ。ケツの青い新人に、オトナの怖さを教えてやる」