Negative Edge Trigger | ナノ





今日も当たり前のようにアポイントメントなしでやってきた彼は、なぜだか大荷物を背負っていた。

「……おはようございます」
「おはよう。先生はご在宅か?」
「え? あ、はい。マンガ読んでますよ」
「上がってもいいか」
「たぶん大丈夫だと思い、ます、けど……」

ついつい語尾が弱くなってしまう。
洗濯機が脱水を終えるのを待ちがてら、ちょうどドアを全開にして三和土で一服していたヒズミの前に、彼──ジェノスは現れた。いつもの三倍くらい横に膨らんだシルエットに、うっかり煙草を挟んでいた唇が開いてしまって履いていたサンダルが燃えるところだった。

いつもならば「どうぞどうぞ」と二つ返事で通してしまうところだが、今回ばかりはそうもいかなかった。一体どこに売っていたのかと聞きたくなるほど巨大なサイズの得体が知れないリュックを背中に携えて、入口に引っかからないよう体を縦にしたり横にしたり四苦八苦しながら、ジェノスはサイタマ宅に上がりこんだ。のしのしと迷いない足取りで居間へと進んでいく。ヒズミは鳩が豆鉄砲を食らったみたいな顔でそれを見送るしかない。

「ここに住んでもいいですか?」
「うん。絶対ダメ」
「部屋代払います」
「ちゃんと歯ブラシ持ってきたか?」

あっさり買収されていた。
なんとも現金な──文字通りに、額面通りに現金な男だった。

つい数日前の手合せを経て、ジェノスの中でなにか固まった決意があるのだろう。それにしたって随分とまあ思いきった行動だが、彼ならそれくらいやりかねないな、とヒズミは短い付き合いながら妙に納得させられていた。進行ルートが真っすぐすぎて逆に読めないのがこのサイボーグ青年なのだ。

洗濯物を干して室内に戻ると、ジェノスはなにやら黙々とノートに書きつけていた。サイタマの至極どうでもいい一挙一動までメモに残して、どうにか彼の強さの秘訣を暴き出そうと躍起になっているようだ。クソ真面目だった。
そういえば中学生のときクラスに黒板まるっと模写してたヤツとかいたなあ、とぼんやり昔を思い出して、ヒズミは少し微笑ましい気持ちになった。

ああ輝かしい青春の日々よ、と手放しで語れるほど綺麗なばかりの思い出ではなかったけれど。

片付けるべき家事をすべて済ませてしまい、やることもないので、ヒズミは玄関を出て再び煙草に火を灯した。普通ならば近所からクレームの暴風雨が到来しそうな行為であったが、ここら一帯は完膚なきまでに無人の通称“廃墟地帯”なのでその心配はない。

(……こんなことしてていいのかね)

ベルティーユ、ドロワット、ゴーシュ──三名の安否は依然として不明のままだ。自分が彼女らのもとで“診察”を受けていた事実は警察もヒーロー協会も把握していたはずなのだが、というか自分をベルティーユに紹介したのは他ならぬ協会サイドなので知らないわけはないのだが、地下から自分の死体が見つからなかったことを不自然だとは思っていないのだろうか。感じていないのだろうか。
まさか悪の研究所と結託した殺人犯扱いされているんじゃないだろうな、と不穏な疑念が持ち上がったが、そうだったとしたらなんのアプローチもないのはもっと変だ。逃走した兇人を追うために大がかりな捜索チームが結成されて、ニュースとかでもガンガン取りあげられて、民衆に危険を伝えるために指名手配でもされそうなものだ。

(いや、逆に世間の混乱を防ぐために報道規制かかったりするのか? ……難しいことはよくわからん)

もとより、あまり勉強はできない方なのだ。
頭を使うことには向いていない。
好きじゃあ、ない。

するとなにやら家の中からばたばたと騒がしい音がして、何事かと思う間もなくヒーロースーツを纏ったサイタマが猛烈な勢いでアパートを出て行った。風速で灰がぽろりと落ちる。

「…………なんだ、今の」

煙草を口の端に挟んだまま、開け放されたままのドアから奥を窺った。廊下に立っているジェノスに尋ねると、なんでも市街パトロールに出かけたとのことだった。名簿からの除外の危機らしい。華々しく合格した次週にクビ寸前とは、なんとも世知辛い。とんだブラック企業だ。

「ジェノスさんは大丈夫なんです?」
「俺はS級だからな。ノルマなどはない」
「はあ、そういうものですか……シビアな世界ですね」
「協会は先生の実力を理解していない。あんなくだらない試験などで、先生の器を測ることなどできるわけがない。杜撰な組織だ」

かなり辛辣な意見だった。敵意すら感じとれる。
どういう意図から出た発言なのかヒズミには推測も憶測もできなかったが、嫌悪感がありありと言葉尻に滲み出ていて、とても世間話のテンションで受け入れられる台詞ではなかった。

……そういうのも、苦手だ。

「ちょっと出かけてきますね」
「どこへ?」
「近くのファミマまで。煙草を買いに」
「……俺が行く」
「え? 近くっていっても、十五分くらい歩きますよ?」
「だからこそだ。あまり外をうろうろしない方がいい。どこに連中の網が張ってあるかもわからないんだ、しばらくは大人しくしておくべきだ」

ジェノスの目は真剣そのもので、真摯そのもので、とても反論できる雰囲気ではなかったので、ヒズミは彼の言葉に甘えることにした。
煙草とついでにミネラルウォーターも頼んで、姿勢よく歩き去っていく後ろ姿を見送りながら、いってらっしゃい、と独り言のように呟く。返事は特に期待していなかったのだけれど、サイボーグの鋭敏な感覚機能はその微細な空気の振動すら感知できたようで、ジェノスはまるで映画のワンシーンのように気障ったらしく軽く右手を挙げて応えた。

「やることがなくなってしまった」

ぽつんと寂しく取り残され、ヒズミはひとりごちる。
自分の嗜好品のために他人を使い走って、なんだか悪いことをしているような気分になってしまう。実にだらしのないことをしているようなプレッシャーを感じてしまう。

「…………ふぁあ……」

それでも呑気に欠伸などかましてしまうのが、自分の性格というか悪癖というかなんというか。しかし三つ子の魂百までという言葉もあるし、齢二十一にもなると如何ともしがたいのが現実だった。

(……寝ても大丈夫かな)

病院襲撃事件の日以来、まともに眠れていない。男ばかりの密室空間で緊張している、というような健気な理由などではもちろんない。そんなデリケートな感性を、残念ながらヒズミは持ち合わせていなかった。

夢を見る。
毎晩、同じ夢を見る。
──悪夢を見る。

そういえば、ジェノスもそんな時期があったと言っていた。彼はどうやってそのトラウマから脱したのだろうか。参考程度に聞いてみたい気もしたが、仮に有効な手段を教わったところで自分には実践できないんだろうな、とも思う。
自分はあんなに強くなれない。
あんなに真っすぐには、生きられない。
三つ子の魂──百まで。

「まったく、とんだチキン野郎だ」

他人事のように罵倒を零して、ヒズミは既に中身の少ない煙草の箱から新しく一本を抜き取った。
視界いっぱいに清々しく広がる青空に目を細める。