Negative Edge Trigger | ナノ





正直、目で追うのがやっとだった。

ジェノスが跳躍して放った鋭い踵落としの一閃。しかしサイタマがするりと容易くそれを回避したと思ったらラッシュが始まって、切り立った崖がものすごい勢いで抉られていき、舞い上がった土埃で激闘は見えなくなってしまった。

「…………すっげーな」

くわえ煙草でヒズミが苦笑を洩らした。ヒーロー試験に合格してジェノスが正式に弟子として認められた記念に手合せするというので(サイタマ本人は乗り気ではなさそうだったけれど)この人気のない採掘場跡地までついてきて見学させてもらっているのだが、なんというか、どえらいものを見てしまったな、という感想しかなかった。邪魔にならないよう充分に距離をとったつもりだったが、ここでは少し危ないかもしれない。

その予感は的中する。ジェノスが放ったフルパワーの焼却砲の、高熱の衝撃波がヒズミのところにまで押し寄せてきた。そして彼女の全身は黒焦げに──ならなかった。神経操作によって強化した脚力でもって、片足を軸にしただけの軽いジャンプで十数メートル上空まで避難する。飛来する岩石の破片を体の周囲に放出した電撃で粉々にして撃ち落としながら、空中でいまだ続くジェノスの猛攻を眺める。

「……見学者がいること忘れてんな」

気にするなとは言ったけれど。
私のことは空気かなにかだと思ってくださいとは──言ったけれど。

隙をついて後ろに回ったサイタマが、ジェノスに反撃する、と思いきや人差し指で振り返ったジェノスの頬をつっついた。小学生の悪戯かよ、とヒズミは思わず吹き出してしまったが、ジェノスはそれが面白くなかったようで、遠慮も容赦もへったくれもない鉄拳を繰り出した。しかしそれすらも、サイタマは簡単に躱してしまう。

(サイボーグでもほっぺた柔らかいんだな)

やりとりが圧倒的すぎてついていけず、ついつい場違いなことに感心してしまう。
もう少し離れた方がいいかもしれないな、と、ヒズミは再び地を蹴った。

戦闘を一時中断し、対峙してなにやら話していたらしい二人が動いた。なにが起こったのか、よく見えなかった──しかし。

殺気、のようなものが、背筋を駆けた。

ざわっ、と本能が唸る。青白い髪が威嚇のように逆立つ。身動きのとれない中空で、反射的にヒズミは薬指にはめられた指環に手をかけて、サイタマがジェノスの額をはたいて背を向けるのを見て、すぐさま我に返った。

(…………危ねえ、うっかり“外す”とこだった)

今の感覚をどう呼称すべきか、どう処理すべきか──なにもかもがヒズミの裁量を超えていた。それは日頃から生命を晒して戦う者には馴染みの深い危機感だったのだが、そんなことをつい先日まで一介のフリーターであった彼女が知るはずもない。

ともあれ、これで実力者のジェノスがサイタマを師と仰ぎ、尊敬して付き従う理由はわかった。嫌というほどわかった。地下での戦闘訓練をサイタマが辞退してくれたことに今更ながら感謝して、ヒズミは懐かしさすら覚える地上に降り立った。衣服に付着した汚れを払い落としつつ、二人のもとへ歩み寄る。

「お疲れ様でした」
「おう。巻き添え食わなかったか?」
「食いかけたんで、途中で逃げました」
「こいつ加減ってものを知らねーからなあ」

呆れたようにサイタマは言うけれど、加減なんかしていたら絶対に勝てないだろう。
もっとも、加減せずとも──勝てなかったわけだけれど。
こてんぱんにやられたわけだけれど。

ジェノスはどこか疲れたような、呆然自失といった感じだった。あれだけ暴れたらそれはエネルギー足りなくもなるよな、とヒズミは思ったが、彼の疲弊の真相が単純な肉体の消耗ではないことを彼女は知らない。

「うどん食いに行こうぜ、うどん」
「いいですね」
「うまい店を知ってんだよ」
「そうなんですか。辛口評価しますね」
「なんでだよ! うどんになんの恨みがあるんだよ!」
「冗談です。うどん好きですよ」
「お前の冗談わかりづれーんだよ……おい、ジェノス? どうした? え? なに、お前うどん嫌なの?」



嫌なわけではなかったようなので、三人は仲良くカウンター席に並んでうどんを堪能していた。
右から順番にサイタマ、きつね。ヒズミ、天麩羅。ジェノス、月見。

「本当においしいですね」
「だろ? コシが違うんだよ、コシが」
「私これからサイタマさんのことうどん先生って呼びますね」
「やめろ! 罰ゲームだそれは!」

漫才を繰り広げるサイタマとヒズミをよそに、ジェノスは黙々と麺をすすっている。先刻の手合せが、サイタマとの力の差がまだ心に重くのしかかっているのか、口数がべらぼうに少ない。もともと多弁な男ではなかったけれど、現在はまた一段と寡黙だった。

「ところで、ジェノスさんってサイボーグなんですよね」

そんな彼に話を振ったのはヒズミだった。屋内だというのにニット帽を目深に被ったままなのは、あえて説明するまでもなくやむを得ない事情のためなので、マナー違反だと指摘するのはご勘弁を願いたいところである。

「食べたもの体内で消化できるんですか?」
「経口で取り込んだ食糧を、エネルギー源として吸収する最低限の体機能は残してある。害がないかどうか、毒物でないかどうかを判断するために、味覚も残っている。普段は食事によって摂取した栄養と、主に焼却砲に使用している燃料と、バッテリーコアの充電によって駆動している。あと、脳を休ませるために睡眠も定期的にとる必要があるな」
「それって、博士さんの温情ですかね」
「温情? どういう意味だ?」
「いや、食欲と睡眠欲って人間の本能的な欲求じゃないですか。うまいメシ食ってぐっすり寝ることを忘れたら、どんどん人間らしさなくなっていきますよ、たぶん。そうならないように気を遣ってくれたんじゃないですか?」
「……そうかもしれないな」

次に会ったら、訊いてみるのも一興か。
メモリの隅に記録しておこう。

「しかしお前も、教授んとこにいたときはあんまりメシ食ってねーって言ってたじゃねーか」
「最近もりもり人間らしさを取り戻している気がします」
「腹が減っては戦できねーからな。ちゃんと食えよ」
「ありがとうございます、うどん先生」
「え? 本当に呼ぶの? それは冗談じゃないの?」

サイタマを無視してつるつると麺を吸い込むヒズミの横顔を、ジェノスは不思議な気持ちで眺める。こうしていると、どこにでもいるただの女の子にしか見えない。刈り込まれたツーブロックの短髪と、ミリタリー風ジャケットにスキニーなダメージ・ジーンズというボーイッシュな服装のせいで可憐な雰囲気はないが、袖から覗く手首は枯れ木のように細く、簡単に折れてしまいそうな危うさがある。
とても唾棄すべき“怪人”などにはカテゴライズできない。できるわけがない。
そういえばこのあいだ強引に脈を測ったときも、風に吹かれたら飛ばされてしまいそうな弱々しさだけが伝わってきて──

「…………ジェノス?」
「! ……はい? なんでしょう」
「いや、すげー目でヒズミのことガン見してたからさ」
「ふと視線を感じてね、いやだなー怖いなーって思いながらね、でも気になって振り向くと、そこにいたんですよ。恐ろしい形相をしたサイボーグが……」
「お前は稲川淳二か」
「……不快だったのなら、謝る」
「いや、イケメンに見つめられると照れてしまう病気なんですよ。うどん先生は不思議と平気なんですけれど」
「よし。お前ちょっと表に出ろ」
「冗談ですってば」

さらっと流してお冷やで喉を潤すヒズミ。彼女のどんぶりは既に空になっていた。律儀なことにつゆまで飲み干され、薬味のネギひとつさえ残っていない。文字通り完食だった。
しばらく休憩してから、支払いを済ませて店を出る。午後の長閑な陽気が三人を包み込んだ。くあ、とヒズミが大きな欠伸を零したのをサイタマが見咎めて、食ってすぐ眠いのかよ、と呆れ顔になった。

「まあまあ。寝る子は育つというじゃないですか」
「二十歳すぎてまだ成長すんのかよ、お前」
「自分の限界は自分で決めるのです」
「キメ顔作ってんじゃねーよ」
「うどん先生が冷たい……ざるうどん先生……」
「それ頼むからやめてくんねーかな」

妙な綽名が定着してしまいかけている。
ヒーローネームにまでうどんが絡んできたらどうしようかと半ば本気で頭を悩ませて、サイタマは盛大な溜息をひとつ吐き出すのだった。