Negative Edge Trigger | ナノ




「サイタマさん、洗いもの終わりました」

濡れた手を拭きながら、ヒズミがキッチンから出てきた。サイタマのTシャツを借りているので、まったくサイズが合っておらず、半袖なのに肘まで隠れている。
彼女が着ていたシャツは現在ジェノスが洗濯している。女性が二日も続けて同じ服を着て過ごすのは苦痛だろう、という配慮による対応だったのだが、サイタマの絶妙な趣味が反映されたアバンギャルドなデザインのシャツに身を包まされるというのもなかなかの羞恥プレイであるような気がしないでもない。もっともヒズミはもともとファッションには無頓着な質のようであったので、まったく気にはしていないようだったけれど。

「おう、サンキュー」
「新しいタオルどこにありますか?」
「あ、いいよ。ジェノスがやるから」
「はい」

指名されたジェノスは、ちょうど洗濯機のセットを終えたらしくキッチンへ入ってきた。水の滴る食器類に手をかざして、掌からヘアドライヤーのような音とともに温風を放出させる。皿やコップがみるみる乾いていくさまを見て、おおお、とヒズミが感嘆の声を上げた。

「そんなこともできるんですか」
「本来の使い方ではないがな」
「え? そうなんですか?」
「もともとは風を発生させ、煙幕や霧などを払うための機能だ。そこに焼却砲の熱エネルギーを調整して加えている」
「へぇえ。器用ですね」

素直に関心しているヒズミを、ジェノスはじっと観察する。自分の手元を興味深そうに見つめている彼女に、今朝の粗悪で粗雑な一面の片鱗は垣間見えない。女心は複雑だというが、ヒズミの場合は単純にそういうわけでもないだろう。彼女が一体どういう人生を歩んで、どういう目線で物事を捉えているのか──その傾向が少しも読めない。これまで他人に興味を持たず、自分自身の目的のことだけを考えて生きてきたことのツケが一気に回ってきているような気分だった。
病院の地下から死体が発見されたというニュースを見ても、彼女は取り乱さなかった。実際に自分の目で確認するまでは希望を捨てませんよ、と冷静に言って、朝食も残さず食べていた。後片付けまですすんで申し出て、マンガを読みながら寝転がっているサイタマに代わって殊勝に家事をこなしている。

「…………あの」
「どうした」
「私の顔になんかついてます?」
「……いや」

じろじろと直視しすぎたようだ。ふいと視線を外して、ジェノスは口を濁す。
乾燥した食器やカトラリーを棚にしまって、二人はリビングに戻る。ジェノスが淹れたコーヒーをサイタマの前に置いた。ヒズミはコーヒーが苦手だそうなので、彼女のマグカップの中身は紅茶である。たっぷり砂糖入りのそれをすすって、遠慮がちに口を開いた。

「とりあえず、これから住む場所を探そうと思います。アパートとかは借りられないと思うので、二十四時間営業のネットカフェとか……」
「やめておいた方がいい」
「そうだな。ほとぼりが冷めるまでは、ここにいた方がいいと思うぞ」
「でも、いつまでもご迷惑をかけるわけには……」
「迷惑なんかじゃねーよ。遠慮すんなって。ここでお前と別れて事態が悪くなる方が寝覚め悪りーよ」
「……すみません」

ヒズミが俯いて歯噛みする。

「でもまあ、生活用品とかは揃えねーとだよな……いつまでも俺のシャツ貸すわけにはいかねーし。外ふらふら出歩くのは危ないかもだけど、帽子被っちまえば白髪は隠せるし大丈夫だろ。昨日のメシの支払いするために借りてきた教授のカード持ってんだろ?」
「ありますけど、でも危ないのでは……ベルティーユさん名義のカードで買い物なんかしたら怪しまれませんか。居場所もバレるでしょうし」
「ヒズミの言う通りです。避けた方がいいでしょう。金なら俺が出しますよ」

ジェノスがジーンズのポケットから引っ張り出した二つ折りの財布を、まるごとサイタマに渡した。中を開いたサイタマが吃驚のあまり凍りついて、錆びついたロボットのようなぎこちない動きでジェノスに向き直る。

「なんでお前、こんなに持ってんの?」
「え? いや、普通に……活動資金ですが」

きょとんとしているジェノス。その表情に他意はない。

「先生はヒズミと出かけてください。自分は病院へ行ってきます。現場に入ることは恐らく許可されないでしょうが、S級の肩書きがついた今なら詳しい話を聞くことくらいはできるだろうと思いますので」
「情報収集だな。頼んだぞ、ジェノス」
「はい。任せてください」
「そういや今日スーパーの特売日だな。ついでに寄ってくか」

のんびりと、どこまでも緊張感のない団欒だった。
しかし、この平和がいつまで続くのか、平穏をいつまで享受できるのか──先は見えないままだった。



──そして。
宣言通りジェノスは総合病院へやってきていた。

事件が収束した今も病院の周囲にはマスコミの取材陣と興味本位の野次馬による黒山の人だかりができていて、ひどい有様だった。どうにかこうにか警察関係者を見つけ出し、声をかける。門前払いも覚悟していたが、どうやらジェノスが期待の新星ヒーローであるのは業界の人間には周知の事実だったようで、すんなり内部に入ることができた。

院内に目立った損傷はなく、被害は報道の通り少ないようだった。案内されたのは横長のデスクとパイプ椅子が並んだ会議室で、背広に身を固めた男女が数人、なにやら話し合っている。

「失礼する。先日S級ヒーローに拝命された、ジェノスという者だ。今回の事件について話を聞きたい」
「ああ、君の噂は聞いている。入っていいよ」

ジェノスを招き入れたのは、若い男だった。肩のあたりまで伸びた髪を茶色に染め、両耳にはリングのピアス。どこか軽佻浮薄な出で立ちだったが、彼の発言に誰も異を唱えないところを見ると、この場にいる人間の中ではトップに近い立ち位置にいるらしい。

「僕はテオドール。テオと呼んでくれ。ヒーロー協会で、まあ、幹部のようなポジションに就いている。どうぞよろしく」

溌剌と握手を求められ、ジェノスは素直に応じた。
勧められるまま椅子へ腰を下ろす。

「ところで、君は一体どうしてここへ? 事件は解決して、もう片付いているのだがね。残っているのは患者のカウンセリングとか、マスコミへの対応とか、施設の清掃とか、そんな事後処理くらいだ。来てくれたのは嬉しいが、S級ヒーローに頼むようなことはなにもないよ」
「地下で発見された遺体について、詳しく教えてほしい」

ジェノスは下手にごまかさなかった。妙に回りくどく外堀を埋めて怪しまれるよりは、ニュースが気になって訪れた体を装った方が疑惑の目も向かないだろうという判断だった。

「白衣を着た女性だったと聞いたが、それなのに病院の関係者ではないというのは、どういうことだ? 彼女は何者なんだ? それに、子供ふたりの遺体も一緒に発見されたそうだが」
「その点については、まだ調査中なんだよ。まだ委細は不明のままでね……身元もまだ判明していない。お手上げ状態さ」
「……遺体を見せてほしいのだが」
「残念ながら、鑑識に回されてしまっていて、もう病院にはいないんだよ」

テオドールは大仰に肩を竦めてみせた。
どうにも軽薄で、信用できそうにないというのがジェノスの彼に対する印象だった。

「ジェノス君は、この件に興味があるのかな」
「不可解な点が多すぎるからな。なにか裏があるのではないかと、自分は思っている」

歯に衣を着せないジェノスの物言いに、テオドールは声をあげて笑った。目に涙すら浮かべて、けらけらと抱腹している。

「ははは、面白い男だね、君は。……よし」

テオドールはポケットからなにかを取り出した。それは小指の先ほどの大きさしかない、薄いチップだった。それを有無を言わさずジェノスに握らせる。

「これは?」
「極秘任務だよ」
「……なんだと?」
「君の勘の鋭さに敬意を表して、本当のことを話そう。ニーナ、彼にも議事録を」

ニーナと呼ばれた女性が、一枚の書類をジェノスの前に置いた。そこには「X市地下研究施設爆発事故についての対応」と見出しが打たれており、そして驚愕の内容が記されていた。

「………………これは……」
「X市で発生した爆発事故については、君も知っているだろう。地元在住の若い女性がただひとり救出された、というのは昼のワイドショーなんかでも割とセンセーショナルに取り扱われていたのだが、ご存じかな?」
「下世話な報道バラエティに興味はないが、生存者がいたのは知っている」

どうやら協会の人間は、ヒズミを助け出したのがサイタマとジェノスであるのを把握していないようだ。実際に、ヒズミを病院まで搬送したのは協会所属のヒーローだと報じられていた。恐らく「一般人をヒーローが命懸けで救った」という美談として売名に利用したのだろう。
当時はまだヒーロー名簿に登録していなかったので無理もないが、そのニアミスは僥倖といえた。

「その生存者にはとある“異常”が出ていてね。後遺症、というべきかな──とにかく摩訶不思議な現象が起きていたんだ。それを解明するために担当医として任命されたのが、今回ミンチとなって発見された女性博士だった。しかし調査が進むにつれ、真相が明らかになっていくにつれ、その生存者を野放しにしておくわけにはいかなくなった」
「……………………」
「協会は女性博士に生存者の身柄を引き渡すよう要求したが、彼女がそれを拒んだ。そして今回の占拠事件が起きた。地下研究所の持ち主連中が、生存者を拉致しようと乗り込んできたと我々は睨んでいる。まあ、十中八九そうだろうね。だが今回、その生存者は発見されていない。地下にいたのは女性博士と、その子供らしい少女と少年だけだった。テロリスト連中は厳戒態勢ですべて逮捕したから、彼らが連れ去っていった可能性もない。つまり、生存者は院内にはいなかった。あらかじめ逃げていたのだろうね」
「……その生存者の行方は」
「目下、捜索中だよ。総力を挙げてね。生かしてはおけない」
「なぜだ? 生存者は一般人なのだろう? 保護すべきではないのか」
「正確には一般人“だった”生き物だ」

テオドールの顔から、笑みが消えた。
酷薄なまでの冷たい視線の切っ先がジェノスに迫る。

「生存者を捕縛せよ。これは協会の総意であり、全ヒーローへの命令だ」