Negative Edge Trigger | ナノ





「はー、食った食った。もう食えねえ。これから一週間くらいなら飲まず食わずでも生きていける気がするわ」
「人間が食糧を摂取せずに生存できる限界は、二ヶ月から三ヶ月くらいと言われています。しかし水分の欠乏に対して人体は脆弱で、三日ほどで生命活動を維持できなくなります。……はっ、もしや断食修行ですか? それが先生の強さの秘訣なのですか?」
「お前めんどくさいな! 冗談だよ!」

テーブルの上には空になった皿やグラスが溢れ返り、三人の旺盛な食欲を無言ながら雄弁に物語っていた。サイタマは行儀悪く畳敷きの座敷に寝転がり腹をさすっているが、個室なのでそれを咎める者はいない。ジェノスは正座で「先生のジョーク……なにか隠された意図があるに違いない……」などとぶつぶつ呟きながらなにやらノートに書き込んでいる。ヒズミはその師弟コントを温かい目で見守りつつ、辛口の日本酒が注がれたグラスをのんびり傾けていた。

「お前うるせーから飲めよ。飲んで潰れて寝ろ」
「申し訳ありませんが、自分アルコールはちょっと」
「あ? 飲めねーの? あ、年齢がアレか」
「いいえ、クセーノ博士に止められています」
「未成年だからとかじゃねーんだ……」

ベルティーユがセッティングした店は意外にも和テイストの食事処であった。酒も肴も非常に質がよく美味であり、店内の雰囲気も風雅で素晴らしく、しかしそれに比例して値段もすさまじかった。ゼロがひとつ多くミスプリントされているのではないかとサイタマは最初目を疑ったが、自分の財布が痛むわけではないのだからと開き直って片っ端から注文することにしたのだった。
その結果がこの暴飲暴食。牛飲馬食である。

「お酒のおかわり、いいですか?」
「おう。飲め飲め」
「じゃあ、……黒霧島で」
「焼酎かよ。お前すげーな、強いんだな」
「好きなんですよ、お酒」
「はあん。あ、俺も生中、ついでに頼んどいて」
「わかりました」

オーダー用の受話器を取って注文を終えたそのとき、ヒズミのポケットの中で眠っていた携帯電話が不意に鳴りだした。登録されているのはベルティーユの番号だけなので、ヒズミは相手を確認することもなく着信に応じた。

「……はい。ヒズミです」
「ああ、よかった。繋がったね。今どこにいる?」
「まだ食事中ですが……」
「ということは、サイタマ氏とジェノス氏も一緒だね?」
「はい」
「それを聞いて安心したよ。サイタマ氏に代わっておくれ」
「サイタマさん、教授が代わってほしいと」
「あ? なんだ?」

訝しげに首を傾げつつ、携帯を受け取って通話に出る。

「もしもし。サイタマですけど」
「急にすまないね。食事はどうだった?」
「最高」
「それはよかった。ところで、連絡しておかなければならないことがある」
「え? なんかあったの?」
「病院が武装集団の襲撃を受けた」

まるで「今日の朝食はトーストを食べた」とでも言うかのように、さらりと、こともなげに伝えられたその衝撃の内容にサイタマは危うく携帯を取り落としかけた。

「はあああああああ!?」
「院内の大部分は既に占拠されているようだ。恐らく、例の“研究所”の連中がヒズミのことを嗅ぎつけて乗り込んできたのだろう。現在はまだ我々の居場所に勘付いてはいないようだが、この地下空間が連中にばれるのも時間の問題だ。申し訳ないが、そのままヒズミを連れ帰って匿ってやってくれ」
「え、いや、アンタ大丈夫なのかよ!?」
「なに、心配するな。さっさと片付けてそちらへ向かうよ。これくらいの修羅場なら、私は何度だって切り抜けてきたよ。ここは私が食い止めるから、君たちはそのまま自宅へ戻りたまえ。私はこんなところで死ぬわけにはいかないんだ。故郷に年老いた両親がいてね、来週あたり久し振りに帰ろうと思っていたのさ。母の焼いてくれるアップル・パイは絶品でね。この戦いが終わったら、たくさん作ってもらって、君たちにもご馳走しよう。そうと決まれば、こんな危険なところに長居などしていられない。逃げるとするよ。……おや? 妙な物音がしたね。様子を見てくる」
「やめろ馬鹿! 死亡フラグをあるだけ全部置いていくんじゃねえ! おい!」

サイタマの叫びも虚しく、通話はそこで切れた。ジェノスもヒズミも、何事かというようにサイタマを見つめている。

「どうかしたんですか? 先生」
「……病院がテロリスト集団に占拠されたらしい。ヒズミをそのまま連れて帰って、匿ってやってくれとさ」
「………………そんな」

愕然と、ヒズミが目を見開く。

「急いで助けに……」
「やめておいた方がいいだろう」
「え?」
「患者や医師たちが人質にとられている可能性が高い。そんなところにのこのこ出向いていったとしても、勝算は低い。連中の狙いはお前だろう? 人質を盾に抵抗を封じられて、易々と拉致されてしまうのは目に見えている」
「……………………」
「苦しいだろうが、今は耐えろ」

ジェノスの冷静な論説に、ヒズミはうつむいて歯噛みした。強く握った拳から、ぱちっ、と火花がひとつ飛んだ。

「あの地下空間──あのエレベーターの他に、外界と繋がる抜け道は?」
「いくつか用意してあるそうです。有事の際のために」
「抜かりねえな。さすが“昔はやんちゃだった”だけあるぜ」
「……大丈夫なんでしょうか」
「教授とやらは頭が回りそうだから、まあ逃げるくらいならなんとかなるとして……問題はあのガキ二人だろ。さすがにガキ連れてうろうろしてたら目立つんじゃねーの?」
「え? いや、むしろ──」

サイタマの言葉にジェノスが口を開きかけて、それは店員がやってきたことで遮られた。オーダーのグラスを手早くテーブルに並べて、慇懃に頭を下げて出て行ったが、誰もそれに手をつけようとはせず、室内には張りつめた弦のような沈黙がきりきりと充満していた。

「……とりあえず、これ飲んだら出よう」
「……そうですね」
「しばらくは俺の家で隠れとけ。むさ苦しい野郎の狭いボロアパートで申し訳ねーけど、寝る場所くらいならなんとか確保するからよ」
「…………すみません」
「謝るなよ。お前が悪いことしたわけじゃねーんだから」

あっけらかんと、サイタマは項垂れるヒズミの背中を叩いた。それでもヒズミは表情を悲壮に歪めたまま、悲愴に強張らせたまま、コップになみなみと注がれた焼酎を見つめていた。