Negative Edge Trigger | ナノ





…………逃げている。

ぜいぜいと息を切らして、縺れる両足を無理矢理に動かしながら、逃げている。

(誰が追ってきているんだっけ──)
(どこから走ってきたんだっけ──)

記憶が曖昧で、自分の置かれた状況を明瞭に思い出すことはできなかったが、それでも脳裡を支配してやまない燃えるような焦燥と凍えるような恐怖に駆られるまま、彼女は逃げている。

いきなり肩を掴まれた。ぞっ、と背筋を悪寒が這い上がる。悲鳴すら上げられず、闇雲にその手を振り払った。
生々しい人肌の温度。
血の通った柔らかい肉の感触。
心臓が壊れそうなほど早鐘を打っていた。

助けを求めたいのに、声が出ない。激しい頭痛。嘔吐感。がくがくと震える膝は、まともに動いてくれているのが不思議なくらいだった。

遠くに明かりが見えた。開けた場所の気配。そこを目指して、一心不乱に走る。髪を引っ張られながら、服を引き千切られながら、それでも必死に逃げて、逃げて、逃げて、辿りついて、



そこで彼女を出迎えたのは。
幾重にも折り重なった血まみれの死体の山だった。



呼吸がうまくいかない。呼吸器官が暴動を起こしているかのようだった。息を吸って、吐く、それだけのことがままならない。足掻いても藻掻いても、指先はシーツに皺を作るだけで、人を呼ぶこともできない。全身が痙攣して、唇の端からはみっともなく涎が垂れ、犬のように舌を出して喘ぐしかない。
塵や埃のひとつもない白い壁と、天井──それはそのまま病室のようであった。木製のキャビネット、電源のついていないテレビ、消えたままの照明。ほかに動くものの一切ない場所の、そのベッドの上でひとり、ヒズミは苦悶にのたうっていた。

「う、ぐ……あぁ…………」

体を捩りながら呻くヒズミの前髪からは、火花が乱れ飛んでいた。枕が焦げて嫌な臭いを発し始める。全身が激しく脈を打って、じりじりと痺れるような感覚があった。比喩でなく、体内を電流が走っているのがわかった。旋毛から爪先まで、隈なく電流が巡った瞬間、ひときわ大きく彼女の四肢が引きつって、そして何回か痙攣すると──異常はなくなっていた。心拍も、呼吸のリズムも元通りで、びっしり浮いた汗だけが異質に光っている。

ノックもなく、扉が開いた。ベルティーユと、その後ろにゴーシュが控えている。
珍しく真剣な顔つきで、ベルティーユはぐったりとベッドに横たわっているヒズミのそばに膝をついた。

「過換気症候群の発作だね」
「………………はい」
「同じく睡眠時に発作を起こした一昨日よりも、回復が早くなっているようだ。枕の焦げ跡から察するに、無意識のうちに放電したのだろう。呼吸器、循環器……不随意筋の運動を電流で制御して、自ら症状を鎮静させたのだね。念のために検査しておこう。ゴーシュ、すまないがドロワットを呼んで一緒に準備をしておくれ。コード“キャトル”だ」

ゴーシュは応える代わりに一礼をし、小走りで出て行った。

「いえ、もう大丈夫ですから……」

上半身を起こし、寝癖のついた頭を掻きながらそう言ったヒズミを、ベルティーユがやや厳しい口調で制する。

「それを判断するのは私だ。呼吸性アルカローシスにより酸塩基平衡が傾けば、血中のカルシウムイオンが血漿蛋白と結合し、濃度が低下する。アルカレミアに達すれば、今の君にどのような影響が出るかわからないのだよ。私は研究者である前に医者だ。仕事をさせてくれ」

専門用語が多すぎてなんのことやらヒズミには理解が及ばなかったが、ベルティーユの剣幕に気圧されて反射的に首肯してしまった。ベルティーユは白衣のポケットからスマートフォンのような携帯端末を取り出して、なにやら操作しはじめる。液晶の上で忙しなく指を動かしながら、ヒズミにいくつか質問を投げかけた。

「昨日の入眠時刻は?」
「しっかりとは覚えていませんが……、ちょうど日付が変わる頃だったと思います」
「就寝前に喫煙したかい」
「少しだけ」
「他になにか変わったことは?」

その問いに、ヒズミはどう回答すべきか数瞬だけ逡巡して、

「いえ、ありません」

そして笑った。
笑った、つもりだった。



夕焼けの赤に染め上げられた駅前の繁華街は人でごった返していた。短いスカートの女子高生グループ、くたびれた顔をしたサラリーマン、スーパーの袋を提げて歩く親子連れ。多種多様の人々が織り成す雑踏の、その片隅で、サイタマとジェノスは退屈そうに並んで立っていた。

「なあ、ジェノス、いま何時?」
「午後五時四十八分です」
「あと十分くらいか」
「少し早く着きすぎましたね」
「かもな。でも、待たせるよりはいいだろ」

そこは駅のロータリーに建てられた記念碑の正面である。ベルティーユに指定された集合場所だった。二人の他にも人待ち顔の若者が何人か近くにいて、どうやらここが待ち合わせのメッカらしいことが知れる。あの教授、ずっと地下にこもっている割には、こういう情報には耳が敏いようだ。

ヒーロー試験の合格をベルティーユに電話で報告したところ、彼女は「そうなるだろうと思っていたから既に祝いの席を準備してある」と言い、今からヒズミに外出の支度をさせて送り届けるから午後六時に落ち合おう、と一方的に約束をとりつけてきたのだった。まあ、もとより受かったら祝杯を挙げようという話は出ていたし、タダで高くてうまい飯が食えるならありがたい、とサイタマは誘いを快諾し、先生が行くなら自分もお供します、とジェノスもくっついてきたのである。

「なに食わしてくれんだろーな」
「楽しそうですね、先生」

ヒズミは六時ちょうどにやってきた。隣にはドロワットもいて、当たり前のようにロリータ服だった。今回はゴシックな黒が基調のものではなく、全身ピンクの甘めなドレスだったけれど、それでも人目を引くのには変わりない。サイタマは昔テレビで放送されていたのを見た「下妻物語」をぼんやりと思い出していた。

「ごめんなさい。待たせてしまいましたね」
「いや、俺らが早く来すぎたんだよ」
「どうせ高くてうまいタダ飯が食えると思って張り切ってたんでしょ。貧乏人は食い意地が張ってて汚いわ」

相変わらずのドロワットの毒舌が炸裂したが、図星なのでサイタマはなにも言い返せなかった。

「じゃあ、私はこれで戻るから。ちゃんとボディーガードしなさいよ。ヒーローなんだから」
「承知した」
「お前は一緒に来ねーのか?」
「あたしはアンタみたいな暇人と違って、やらなきゃいけないことがたくさんあるのよ」
「こんのクソガキぃいい…………」
「ドロワットちゃん、送ってくれてありがとう。帰るときには、また連絡するから」
「いいえ。無理はしないで、楽しんできてくださいね」

うってかわって天使のような笑顔を浮かべるドロワット。こいつ二重人格なんじゃねーのか、とサイタマは苦々しげに眉根を寄せるが、そんな彼をドロワットは華麗に無視して「それではごきげんよう」と踵を返し、人混みに紛れてすぐに見えなくなった。

「それじゃあ、行きましょうか」
「場所は? わかるのか?」
「教授から地図をもらっています。ここからそう遠くはないみたいですよ。とりあえずタクシー拾いましょう」
「タクシー移動かよ。豪勢なこったな」
「交通費も教授持ちですから。遠慮なく文明の利器に頼らせてもらいましょうよ」
「そうだな。そうさせてもらうか。あー、腹減ったなあ……」

呑気な会話を交わしながら、三人はタクシー乗り場を目指して歩きはじめる。



それから約二時間ほどが経過した頃。
ベルティーユは自分のデスクで、コンピュータと向かいあっていた。デスクトップのパソコンが三台も並んでいる。ディスプレイにはそれぞれ違う画面が表示されていて、彼女はそれらを鮮やかな手腕でもって同時に操作して、なにやら難儀そうな作業を行っていた。

「ドロワット、今朝のコード“キャトル”の資料をおくれ」
「かしこまりました、教授」

機敏な動きで、ドロワットはベルティーユの指示をこなしていく。床にダイレクトに積まれた膨大な量の書類のうちから、必要なものだけを抜き出して、ベルティーユへ差し出した。

「……ふむ。やはり、常軌を逸した数値が出ているね。ヒトとして──いや、生物として、これで生命活動を維持できているとは考えられない。まったく頭が痛い話だよ」

言葉とは裏腹に、ベルティーユはどこか愉快そうだった。さながら子供がテレビゲームの謎解きに挑んでいるかのような、無邪気な貪欲さがあった。資料から顔を上げ、再びコンピュータへ向き直ったところで、ゴーシュが入ってきた。普段となんら変わりない無表情であったが、そのなかにどこか逼迫した焦りのようなものも微かにあった。普通人なら判別できないであろうその差異をベルティーユは鋭く見咎め、作業の手を止める。

「教授」
「どうしたんだい? ゴーシュ」
「大量の。人の。匂いが」
「それは地上の患者や医師のものではないのかい?」
「人の。匂いと。それだけでは。なくて」
「なくて?」

「金属と。火薬と。その匂いが。たくさん」

ゴーシュのその台詞と、けたたましくサイレンが鳴りだすのが同時だった。

耳を劈くような警報。それは地上──院内で大きなトラブルが発生したとき、その危険を察知できるよう設置したものだった。そのシステムが、今、作動している。
大音量で、警告を発している。

「……予想よりもちと早いが、まあ、こんなものか」

嘆息して、ベルティーユはコンピュータに差してあったUSBメモリを引き抜いた。本来ならばその乱暴な扱いによってデータが破損してしまうところだが、特別製のそれはそんじょそこらの市販品とは違う。しっかり保存された内容を堅固に防御している──それをブラウスの胸ポケットにしまいこみ、ベルティーユはよいしょと腰を上げた。

「彼女がちょうど不在なのが、不幸中の幸いといえるかな。……さて、ドロワット。ゴーシュ」

椅子の背もたれに掛けてあった白衣を颯爽と羽織って、ベルティーユは女神のように笑う。

「逃げようか」