murmur | ナノ




またひとつ雷鳴の轟くのが、遠くから聞こえた。

雨脚はいまだ衰えず、布を引きずるような声を上げながら打ちつける大粒の水滴が窓硝子を垂れおちて不規則な模様を描いている。まったくもって憂鬱な天気だ。なにが不満かって、こんな有様ではサッカーができない、それに尽きる。サッカーができないということは、つまり、世界の終わりに等しい。ノストラダムスも裸足で逃げ出すレベルの災厄といえよう。いや、誇張でなく。

俺のようなボールを蹴って転がしていないと死ぬ人種ばかりが集うこのクラブ・ハウスは、そんな事情でしんと静まりかえっていた。突然の大雨に練習を中断され、チームメイトたちは不服そうな面持ちでそれぞれ散っていった。どこか悄然とした様子で帰路につく者と、熱心なことに行きつけのジムへ向かう者と、憂さ晴らしに街へ繰り出そうと数人で連れ立っていった者と、この事態に対する反応はまちまちで、そして俺はそのどれにも属せず、こうしてふらふらと廊下を歩いている。

「あ、有里さん」

公報スタッフを前方に発見して、俺はその背中へ声をかけた。彼女はくるりと元気よく振り向いて、愛想よく笑った。その頬にニキビが増えている件については触れないほうが得策だろう。

「赤崎くん、まだ帰ってなかったの」
「いや、トツキさんに用があって……」
「そうなの? あの子まだダウンしてるから、急ぎじゃないなら改めたほうがいいわよ」

トツキさんというのは、しちめんどくさい説明を省いて平たくいうと、有里さんの後輩というか部下というか、そういう立ち位置にあたる人物である。口数は多くもなく少なくもなく、うるさくないわりに冗談の通じる、まあ要するにどこにでもいる普通のオンナノコである。休憩時間になると取り憑かれたかのようにひっきりなしに煙草へ火をつける悪癖を除けば、おおむね好感度の高い異性といえよう。

「借りてたCD返したかったんスけどね」
「今度にしといたら? お昼頃に覗いたら、真っ青な顔ですごいうなされてたから、そっとしといてあげたほうがいいよ」
「そんなひどいんスか」
「もともと雨の日は頭痛ひどいって言ってたし、最近は残業とか休日出勤が多かったから、疲れが出たんじゃないかなあ」

そうだったのか。フロントの激務について風の噂に聞き及んではいたけれど、そこまでとは知らなかった。なんとはなしに、胸がざわつく。罪悪感のような、好奇心のような、得体のしれない情がむくむくと沸き上がって、気づくと口が勝手に動いて「医務室に行ってみます」と発していた。

宣言通り医務室へ足を運び、引き戸を開けてなかを覗いたところ、果たしてそこには誰もいなかった。どうやらドクターは席を外しているらしい。よくよく観察するまでもなく、部屋の右半分に規則正しくみっつ整列したベッドのうちのいちばん奥まったスペースのみカーテンが閉められていたので、目的の人物はそこで眠り姫の役に徹しているのだろうと思われた。俺はなるべく足音を立てないように近づいて、らしくもなく僅かばかり緊張しながら、そっとカーテンをずらした。

「…………トツキさん?」

当然のように、彼女はそこにいた。顔色はもはや蒼白と呼称して差し支えないほどに芳しくなく、とても眠り姫なんてうつくしい形容で表現できるものではなかった。その点に関しては反省を禁じえない。ひょっとして死んでいるんじゃなかろうか。そんな馬鹿げた発想を振り切れないほど衰弱した様相の彼女に、俺はついつい手を伸ばして、額に触れた。決していかがわしい下心があったわけではない。神に誓って。ただの確認作業である。

指先に体温をしかと感じて、ほっと胸を撫で下ろした。すると途端に恥ずかしくなって、俺はいきおい手をひっこめた。まったく、誰かに見られでもしていたら言い訳のできない状況だった。危なかった。くわばらくわばら。

「…………ん」

ふいにトツキさんが身じろぎしたので、心臓が止まりかけた。どうやら今ので起こしてしまったらしい。彼女はうっすらと目を開けて、ぼんやりと俺を見上げた。焦点が合っていないのが俺からもわかるほど胡乱げな視線だった。

「……せんせい?」

かすれた声で、的外れなことを言う。俺は親切な男なので、ちゃんと訂正してやった。

「いや、俺です。赤崎ス」
「ああ、……赤崎くん……」

彼女は気持ち目を細めて俺を捉えようとしたらしいが、うまくいかないようだ。覚醒したばかりで霞がかった意識と、もとからのド近眼が重なって邪魔をしているのだろう。脇のキャビネットに無造作に転がっている眼鏡を手渡そうかどうか少し迷って、やめた。

「大丈夫スか?」
「うん……」
「なんか欲しいものとか、ないスか。水とか」
「…………煙草」

まったくもって歪みない解答だった。俺はため息をひとつ吐いて、その要求を無言で却下した。
そのとき、また雷鳴が轟いた。近くに落ちたようで、思わず肩をすくめかけるほどに派手な音が撒き散らされた。

「………………う」

トツキさんが口を押さえて、ひきつるように体を丸めた。俺は咄嗟に足元のごみ箱をひっつかみ、顔のそばまで持ち上げてやった。彼女の紫に変色した唇から、遠慮も容赦もなく、胃の内容物が逆流する。消化途中のなにがしか、というよりは、ほとんど胃液だけといったおもむきの、透明で粘着質なそれが嫌な音を立ててみるみる底に溜まる。
彼女の背中を気休め程度にさすってやりながら、落ち着くのを待った。手が震える。数度ほど発作めいた嘔吐を繰り返して、ようやく収まったのを確認し、俺はごみ箱をベッドの下に滑らせた。

「……大丈夫スか?」

気の利いた科白のひとつも出てこない自分が恨めしい。

「ごめんね……」
「いや、謝らなくても」
「ありがとう……もうちょっとしたら……立てるようになると思うから……赤崎くん、戻っていいよ、練習……」
「とっくに中止になりましたよ」
「ああ、そうなの……、帰らなかったの?」
「借りてたCD、返そうと思って」
「そんなの、今度でよかったのに……赤崎くん、意外と律儀」

意外と、ときたもんだ。俺は苦笑した。

「わざわざ悪かったね……そのへんに、適当に置いといて……帰るときに回収するから」
「トツキさん、車っスか?」
「いや、地下鉄とチャリ……免許……持ってないから……」

この状態のうら若い女性が蒸し暑い満員電車に揺られ、そののち豪雨に打たれながら自転車を漕いで、果たして自宅まで辿り着くことができるだろうか。いや、できない。無為に反語法など駆使してみたけれど、どう考えたって無理がある。
そしてそんな無鉄砲を看過できるほど、俺は図太い神経を持ってはいない。

「家まで送りますよ」
「え、いや、そんな……悪いよ……赤崎くんだって疲れてるのに……」
「ここであんたを放っぽって帰ったら、そっちのが寝覚め悪いスよ」
「まだ、しばらく……動けそうにないし」
「いいですよ、どうせ暇っスから」

話はこれで終わりだと、俺はトツキさんを無理矢理に布団へ押し戻した。寝ろ。爆睡するがいい。
せいぜい惰眠を貪りまくって、またいつもの、あの飄々とした小憎らしい顔を見せてくれ。

そのためなら、まあ数時間くらい、待ってやってもいい。
そのくらい、まったく苦じゃない程度には──俺は。
あなたのことを……。

「ありがとう」

トツキさんが、観念したように目を閉じた。

「惚れちゃいそう」
「……やめてくださいよ」
「嘘だよ」

嘘かよ。
……嘘かよ!

「いや、ほんと、ありがとう」
「……べつに」

会話はそこで途切れて、室内にノイズめいた雨音が充満する。ざあざあと。急かすような、焦らすような、どうしたって愉快とはいえない音が。
彼女の顔色には、まだ赤みが戻る気配もない。
この雨が早く止めばいい、と思った。





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