murmur | ナノ





河沿いに伸びる堤防の桜が、今年も満開になった。麗らかな春の陽気に溢れながら吹く温かい風に薄紅の花弁が舞っている。ざあざあと葉と枝を擦らせて侘しげに鳴く親の声を浴びながら、豊かな水を湛える川面に落ちて、どこかへと流されていく。散った桜が大海原へ旅立つ美しい景色を一瞬トウカは想像しかけたけれど、きっとその前にすべて腐って黒ずんで、魚の餌になってしまうのだろう。ちょっとだけ寂しくなった。

首を刈られて背丈の短くなった雑草を踏みしめながら、トウカは堤防の斜面を歩いていく。その後ろについてくるサイタマの手には、道中コンビニに寄って調達した酒と肴が詰まったビニール袋が提げられている。花見にアルコールは欠かせないだろう、というのが彼の主張で、そういうものかとトウカも素直に従っておいたのだが、正直いまいちその感性はわからなかった。もとより“花見”という母国特有の文化に触れた経験の少ない彼女である──与えられた情報を鵜呑みにするほかないのだった。

「思ってたより、人が少ないなあ」
「平日の昼間だからな。春休みも終わったし」
「そっか。それもそうだね」
「ゆっくりできて最高だ」
「同感でございます」

適当な場所を選んで地面に腰を下ろし、やれやれと一息つく。ジーンズの生地越しに尻を刺すちくちくとした感触がくすぐったかった。しまった、ビニールシートを持ってくるべきだった──などと悔やんでみても、既に後の祭りである。

そんなトウカに対して、サイタマはまったく気にする素振りがない。鼻唄混じりにビニール袋の中身を物色している。胡坐をかいた脚の上にビールの缶を置いて、薄いパックのビーフジャーキーを取り出して封を開けた。

「もう飲むの?」
「え? 他にすることあるか?」
「いや、もっとこう、綺麗な桜を楽しんでから……」
「お前が代わりに見といてくれ」
「サイタマさんここになにしに来たの?」
「酒盛り」
「……………………」
「今日は奮発してエビス買ったからな」
「さいですか」

子供みたいに浮かれている様子のサイタマに適当な相槌を打って、トウカは視線を風景のほうに移す。どこまでも続く桜並木の下、自分たちと同じように寛いでいる人々の姿が疎らに見えた。家族連れもいるようだが、圧倒的に一対の男女の組み合わせが多い。仲睦まじく肩を寄せ合って、ぐっと顔を近づけて、言葉を交わしているようだ──愛の言葉でも囁き合っているのだろうか。おやおや幸せそうでなによりですね、とトウカは唾でも吐きそうな勢いで頬を引きつらせた。

朴念仁を絵に描いたようなサイタマの性格上、そういう色気のあるムーディーな展開を期待できないのは承知していたけれど。
正直なところ──羨ましいのも事実である。

坂の下はゲートボール場になっている。休日には地元の老人会が集まって、のんびりと球を打って転がして過ごしているのだけれど、現在は閑散としていた。遠くには高いフェンスに囲まれた草野球のグラウンドも窺える。こちらも人気がなく静まりかえっていた。脇の駐車場もがらがらに空いている。花見客の車が申し訳程度に停まっているだけだ。

「お前も飲めよ。酎ハイ買ってたろ」
「……うん」

サイタマが差し出したカクテルパートナーの缶を受け取って、プルトップに爪を掛ける。小気味いい音を立てて開いた口から流れ込んでくる微炭酸が舌を刺激した。お天道様が頭上にあるうちからこんなものを摂取している罪悪感というか、背徳感というか──もともと酒が特別に好きという質でないのも相俟って、あまり気持ちのいいものではなかった。

「あ」
「どうかした?」
「頭に花弁ついてる」

サイタマの右手がそっと髪に触れる。巨大隕石だって素手で破壊してしまう力を秘めているとは思えない繊細さで、旋毛の上に乗った桜の欠片を払う。ほんの少しだけ、鼓動が早まった。

「ごめんね、ありがと」
「ああ、……なんかアレだな」
「アレって?」
「漫画とかであるだろ。桜に攫われるかと思った、って」
「はあ?」

──突然なにを言い出したのだ、この男は。

「アレって元ネタなんなんだろうな」
「坂口安吾じゃないの?」
「そうなの?」
「いや、知らないけど……」

口の端に白い泡をくっつけながらビーフジャーキーを齧りつつ、サイタマはどこか遠い目をしている。普段あまり見せない類の表情だった。否応なしに殊更、心拍数が高まっていく。

「俺ああいうの、今まで笑って聞いてたんだけどさ、なんとなく気持ちがわかったような気がするわ」
「……サイタマさん、どうしたの、急に」
「お前がさびしそうな顔してたから」

どっか行っちまうかと思った。
前を向いたまま、サイタマがぽつりと細く呟く。

「……行かないよ」
「そうか」
「行くわけないじゃん」
「そうか」

トウカの呆れたような口調に、サイタマは自嘲っぽく頬を歪めた。缶に触れている唇が描いている薄い弧に、なんとなく寂寞のようなものを感じる。さびしそうなのはどっちだ、このハゲ、とトウカは胸の奥を締めつけられるような痛みに囚われた。

「連れてかれたって、ちゃんと帰ってくるし」
「本当かよ。そんなちっちぇーくせして」
「ちっちゃいのは関係ないでしょ。それに、大体──サイタマさんがちゃんと捕まえててくれれば、他のひとに攫われちゃうことなんて絶対にないじゃない」

なんてったって、世界一のヒーローなのだから。
その誰より逞しくて、力強くて、かっこいい二本の腕で。

しっかり守ってくれなきゃ困るのだ。

「……そうだな」
「そうだよ」
「責任重大だ」
「気合い入れてがんばってよね、──“先生”」
「トウカ」

サイタマの腕が再び持ち上がって、後ろからトウカの肩に回される。後ろから頬を撫で、耳を辿り、形を確かめるように優しく動く。

「俺のこと好きだって言って」
「……いや、ここでそれは恥ずかしいわ」
「言ってくれよ」
「……………………」
「トウカ」

そんな──甘えるみたいな声を出すなよ。
弱い部分を堂々と見せないでよ。

うっかり絆されて、蕩けてしまうではないか。

「……好きだよ」
「うん」
「だいすき」
「うん。もっと」
「……そろそろ殴るよ?」

凄んではみたものの、照れ隠しなのはバレバレのようだった。急に思いっきり抱き寄せられて、瞬きの音さえ届きそうな至近距離まで引き寄せられて──有無を言わさず、唇を奪われる。

「……………………」
「……………………」
「あの、ここ外なんですけど」
「誰も見てねーよ」
「そういう問題じゃなくて」
「大好きだぜ、俺も。お前のこと」
「……っ」

ぷしゅううううっ、とトウカの顔面が熱を帯びて朱に染まる。ふたりを包むように咲き誇る満開の桜よりも濃く鮮やかに色づいて、じわりとトウカの目頭に涙が滲んだ。

「泣くことないだろ、お前」
「泣いてない」
「泣いてんだろ」
「泣いてないってば。誰のせいだと思ってんのよ」

サイタマの脳天を叩いて、トウカはそっぽを向いてしまう。頭がふわふわして、地に足がつかず、風船のように浮かんでいきそうな心地がするのは、決してアルコールのせいだけではないのだろう。

どこまでもどこまでも昇っていってしまいそうだ。
だけれど──ちっとも不安はない。
紐を握っているのは、他でもない彼なので。

絶対に離さないでいてくれるだろう。

「このあと、昼メシどうする?」
「そうだねえ……」
「せっかくだし、食って帰ろうぜ。さっき鰻料理の店の看板ちらっと見かけてさ。うまそーだなと思って」
「お金あるの?」
「……それはそんとき考える」

途端に頼りなく語尾を小さくしてしまったサイタマに、トウカは声を上げて笑った。なんとも情けないけれど、でも、そんな彼がとてもかわいくて、かっこよくて、愛おしいのだ。

こんなどうしようもないふたりは、きっと犬も食わない。

うつくしい桜だって、呆れ果ててものも言えないで──誰も知らない涯へ連れていく気も失せることだろう。妖しく誘って拐すには値しない阿呆だと見向きもしないことだろう。

そうしてただ、そこで、黙って咲いている。