murmur | ナノ


※のの様リクエスト
※短編「ホントどーなったっていいよ」「玄冬素雪の寒き夜は」続編です





「あれ? ゾンビマン、なにしてるの? こんなとこで」
「おう、童帝か。元気そうだな」

そこはとある喫茶店の二階である。木製の丸テーブルの上に書類を広げ、紫煙をくゆらせながら器用にペンを回して遊んでいたゾンビマンと、たまたまやってきた童帝のふたり以外に客の姿はない。階下の飲食スペースはそれなりに混雑しているのだが、遠く聞こえてくる喧噪は別世界の出来事のように現実味がない。それくらいに、彼らのいる空間は閑散としている。座る者のない席が、寂寥さえ漂わせながら黙しているだけだ。

「珍しいね。ゾンビマンが“第四会議室”使ってるなんて」
「ここが一番人目がねえし、静かだからな。気に入ってんだ」

なんの変哲もない、街中を探せば無数に存在している、大手チェーンが運営するカフェの店舗──しかしその裏側にはヒーロー協会が一枚も二枚も噛んでいる。二階だけを買い上げて“間借り”して、極秘の打ち合わせや怪人討伐のミーティングに使用しているのだ。いくら要塞のごとく強化された本部でも、常に衆人環視の環境に晒されていれば、小さい穴から情報が漏れやすい。こういった公共の場のほんの一部だけに根を植えつけて、外界と隔絶させて遮断することで、逆に対外的な敵の目を欺いている。建物自体の所有権は店舗のオーナー側にあるので、そういった方面の法務関係から足がつくこともない。

まさか国内外を問わず名を轟かせ、光と闇を絶え間なく往来しながら暗躍するヒーロー協会が、その辺の喫茶店で未来を左右する重大な話し合いをしているなどとは誰も思わないだろう。

ここで働いている店員のほとんどにも知らされていない、トップ・シークレット事項だった。バレないように協会幹部たちが相当の気を配っているようだが、そういった裏方事業は現場で戦うヒーローであるゾンビマンや童帝の関わるところではない。ありがたく恩恵に与らせてもらっているのだった。

「それは同感だよ。だから僕も開発中の新兵器の計画を詰めに来たんだけど──邪魔だったかい?」
「いや、むしろ助かったぜ。ちょっと貸してくれ」
「貸すって、なにを?」
「頭」

童帝はゾンビマンの発言の意図を掴みきれず訝りながらも、テーブルを挟んだ向かいに腰を下ろした。背負っていたランドセルを膝に乗せて、脚を宙でふらふらと揺らす。身体が小さいので、爪先が床につかないのだ。そんな歳相応なかわいらしい姿を見ていると、彼が天才的な頭脳のみでS級上位まで昇りつめてきた正真正銘のバケモノであることを忘れそうになる。

「なに? 面倒ごと?」
「史上最大の危機に直面してる」
「ふうん……?」

澄まし顔で小首を傾げつつ、童帝は机上に散らばった紙に目を落とした。なにげなくその書面に踊る文字列を追って──彼の表情が、にわかに混乱の様相を呈する。

「なにこれ? 雇用変更書じゃん」
「おう」
「被扶養者届もあるし」
「おう」
「ゾンビマン、家族いたの?」
「いや、増えることになってな」
「えっ?」
「結婚すんだよ。来月」
「はあああああああああああああああああっ!?」

下の階まで聞こえてしまいそうな大声で、童帝が叫んだ。思わず立ち上がる。どんがらがっしゃん、と派手な悲鳴を上げてランドセルが床に落ちた。明らかに教科書や筆記用具の類が立てる音ではなかった──果たしてそこには、なにが詰まっているのやら。

「静かにしろ。一応まだ未公開なんだからなコレ」
「え、ああ、ごめん……ていうか、本当? 結婚って」
「なんだよ、悪いかよ」
「いや悪くはないけど……へぇえ……まあ、とにかく、おめでとうございます」
「これはこれは、ご丁寧にどうも」

呑気にお辞儀など交わしている場合ではない。童帝はいまだ驚愕の抜けきらない面持ちで椅子に腰を落ち着け直して、はー、と感慨深そうに長い息を吐き出した。

「そっか、お嫁さんが被保険者になるから登録しなきゃいけないんだね」
「そういうこった。今まで俺、こんな契約書みたいなの書いたことなかったからよ。全然わかんねーんだ。お前ならこういう小難しい法律みたいなことにも詳しいんだろうと思ってよ」
「まあ、これくらいなら別に……この欄に奥さんの名前書いて、あとは歳と生年月日と……」
「歳と生年月日がいるのか?」
「当たり前じゃん」
「くそっ、あとで聞いとかねーとな……しかしアイツ、自分が生まれた日なんて覚えてんのか? 何年前だっつー話だよ……そもそも戸籍あんのか?」

ぶつぶつと面倒くさそうに呟くゾンビマン。その内容は、童帝のズバ抜けた思考能力を以てしても理解できなかった。この男は一体どういう女と家庭を築こうとしているんだ?

「……まあいいや、なんとかなるだろ。あとは……」
「まだなんかあるの?」
「子供は?」
「は?」
「だから子供だよ」
「子供?」
「子供」
「……結婚もまだなのに、気が早いんじゃない?」
「でも今もう腹の中にいるぞ」
「えっ」
「四ヶ月に入った」

今度こそ本当に童帝は卒倒しそうになった。
錯覚とかいうレベルでなく、目の前が真っ暗になった。

「マジで? えっ? デキ婚?」
「最近は授かり婚っていうらしいぞ」
「…………………………」

──ちょっと。
ちょっと待ってくれ。

状況を整理する猶予を要求する。

「とりあえずアイツの個人情報を準備しないことにはなんにも書けねえってことはわかったし、一旦持って帰るか……かったりいな、雇われ人の暮らしってなァ。無駄な時間とらせて悪かったな、童帝」
「あ、いや、……お力になれませんで」
「またなんかあったら聞くわ」
「…………………………」
「他言すんなよ」
「わかってるよ」

散乱していた書類を雑に掻き集め、適当にクリアファイルに挟み込み、買ったばかりなのが丸わかりな黒いビジネス・バッグにスローインして、ゾンビマンは気怠そうに立ち上がった。取っ手に指を引っ掛けて肩に担ぐ。そんな持ち方をしていいような安物の鞄ではなさそうなのだけれど、本人にそういうこだわりはないらしい。どうせ店員に勧められるがまま購入したのだろう。S級ヒーローが金に困窮している道理はないだろうと足元を見られたに違いない──それにゾンビマンは気づいていないのか、はたまた気づいているがどうでもいいと思っているのか。なんとなく後者なんだろうな、と童帝は考える。

カップに三分の一ほど残っていたブラックコーヒーを一気に飲み干して、そんじゃあな、お疲れさん、と短い挨拶だけを残してゾンビマンは階段を下りていった。あと約半年で父親になるという同僚の様子は普段とまったく変わらなかった。相変わらず血色の悪い顔であった。突けば倒れてしまいそうな青瓢箪のくせをして、燃えるように赤い炯眼は鋭い。その裡に秘めているものを童帝は知らないが、少しだけ興味が沸いた。

並外れた智慧を誇るヒーローである前に、彼はまだ齢にして弱冠十歳である。人心の機微、色恋沙汰にはどうにも疎いのだけれど──未知の対象には、好奇心を覚えてしまうのが男の子という生き物なのだ。

「……面白いことになりそうだね」

誰にともなく呟いて、童帝はランドセルから取り出したタブレット端末に指先を滑らせる。専用の回線を持っているので、インターネット通信速度は民間のそれと比較するべくもない。とりあえず検索エンジンに接続して、同僚に贈る結婚祝いにはなにが相応しいのか検索してみることにした。組織に所属する一員として、最低限の礼儀は払っておかねばならないだろう。

平和で平穏なはずの昼下がりが、衝撃的なゴシップ・ニュースによって打ち砕かれて──しかし愉快でたまらない。今後の成り行きに胸を躍らせながら、童帝は鼻唄でも飛び出しそうな上機嫌でとりとめのない時間を過ごすのだった。