murmur | ナノ





「ソニックさん、お茶が入りましたよー」
「わかった。今そちらへ行く」
「今日はいい茶葉が手に入ったので、お菓子も用意しました。シフォンケーキです。お口に合うかどうかわかりませんが……」
「いや、ありがたく頂戴させてもらう」

それは穏やかな昼下がりのひととき。

広々とした屋敷の、そのダイニングに設えられたテーブルを囲んで、トウカとソニックはのんびりとティータイムを満喫している。テーブルは縦に細長い形をしていて、十五人くらいなら並んで座れるくらいの大きさがあった。しかし席についているのは二人だけである。他には誰もいない──住宅というよりは王城に近い造りの豪邸でありながら、側に控える使用人もいない。

「なかなか上等だな」
「お気に召していただけてよかったです」
「これはどこで調達してきたんだ?」
「ネット通販で」
「便利な世の中になった」
「まったくです。家から一歩も出なくたって、お金があればなんでもできてしまう……楽なのは間違いありませんけど、ちょっと罪深いような気もします」

しっとりとした生地の、甘さを控えめに抑えたシフォンケーキを頬張りながら、トウカは自嘲気味に苦笑を浮かべた。

「こんなことになってしまった当初は、一体どうなるのかと不安でしたけど、案外どうにかなるものですね」
「お前が気を揉むことはひとつもない。俺がすべて面倒を見る。そういう“契約”だ」

ふくよかな香りを漂わせる紅茶で唇を湿らせて、ソニックはこともなげに言う。

“契約”──
ソニックはそう口にした。

トウカはついつい最近まで、どこにでもいるただの普通人だった。一般企業に勤め、平均的な所得を受け取り、家賃の安いワンルーム・マンションで一人暮らしをしていた。彼女の生活が一変したきっかけは、とある大財閥一族が根絶されたという恐ろしい事件にある。

世界的に危険視されていた強盗グループの凶刃によって、彼ら一族の財産と生命が根こそぎ奪われたのだ。血縁者はおろか、少しでも彼らの親類や所有物に関わりのあった者は皆殺しにされ、金品は勿論のこと貴金属や高価な衣類に至るまで、すべてが強奪された。史上ほかに類を見ないその大量強盗殺人によって齎された影響たるや、すさまじいものであった──芋蔓式に倒産した企業は両手の指でも足りず、景気は落ち込み、暴力的なほどのデフレーションが起き、混乱は国内に留まらず海外各地で治安の悪化を誘発した。

そんな歴史に残る大々事件がトウカにどんな関係があったのかというと。
トウカがその悲劇的一族の遠縁の親戚にあたる血筋の人間だったということが判明したのである。

財閥当主の三女が執事と浮気して産んだ一人娘という、昼ドラも裸足で逃げ出すくらい複雑な立場だったのだ。その三女──つまりトウカの母親と、父親である執事はお忍びで訪れていた観光地で乗ったタクシーが乗用車と正面衝突した事故によって十数年以上も前に亡くなっているのだが、それも偶然ではなく“だらしない我が子に激怒した当主が、己の体裁を守るため事故に見せかけて始末したのだ”と世間ではまことしやかに囁かれていた。

「生まれたばかりの頃に両親が他界して、施設に引き取られて、自立できる歳まで育ててもらって、就職も決まって、さあ皆さんに恩返しをしようと働きだした矢先でしたから、ショックは大きかったです」

とは──トウカの言である。

血縁者であるトウカが生きているとなれば、当然、多額の保険金や秘匿されていた非公開の資産などはすべて彼女のものになる。宝籤の一等と前後賞をまとめて百回くらい当てたみたいな金額が一挙に彼女のもとへ転がり込んだのだ。世間知らずの若い女が、数奇な運命に翻弄されて大金持ちの仲間入りを果たしたというのだから──世の中の暗部に跋扈する悪人たちが、それを狙って襲い来るのは自明の理だろう。

そしてボディーガードとして雇われたのが、闇社会でその名を知らぬ者はない、伝説の忍者──音速のソニックだったというわけだ。

正確に表すならば、ソニックは直接トウカに雇われたわけではない。もともと一族の守護についていた荒事専門の裏会社、通称“警邏隊”が仕事に失敗したことの尻拭いとして白羽の矢が立ったのだ。警邏隊がどうにかこうにか保護することのできたわずかな財産(それでも目が飛び出そうなほどの桁なのだけれど)をあるべきところに落ち着かせるため、妨害する不届き者を排除する──それがソニックに課せられた任務だった。

トウカをほとんどけしかける形で説得し、遺産を使って秘境に建てさせた要塞の如きこの別荘で、ほとぼりが冷めるまで二人きりの隠遁生活を送る──そういう仕事だった。

「私としては、こんな遺産なんて全額とっとと使いきってしまって、元の暮らしに戻りたいのですが」
「金がなくなったところで、お前の生まれが変わるわけじゃない。大財閥血族の唯一の生き残りという肩書きは、一生ずっと付きまとうぞ」
「血は水よりも濃い、ってことですね……やれやれ」

嘆息して、トウカは首にぶら下げたネックレスに手を添えた。きらびやかな宝石があしらわれた、見るからに値の張りそうなそのアクセサリーは“妖精の涙”と呼ばれている。大粒のダイヤモンドとエメラルドが惜しみなく鏤められたデザインが、碧の瞳から美しい涙を零す妖精を思わせる、ということでついた通称らしいのだが、あまりにも捻りがなさすぎて逆にチープだとソニックは内心で呆れている。

「それも売ってしまうのか?」
「いえ、これは……できれば手元に置いておきたいです。母が生前ことのほか気に入っていたネックレスだそうですから……勝手に形見だと思ってるんです。顔も覚えていない親ですけれど……手放したくないですね」
「それだけで小国の国家予算くらいなら賄える価値がある代物だぞ。そんなものを持っていたら、死ぬまで悪党どもに狙われるのは目に見えている」
「そうですね。それはわかっているんですが……」

伏し目がちに苦笑いして、しかしどこか確固たる決意も感じさせる口振りで、トウカは言う。

「私にも、プライドみたいなものがあるんです。せめて、これだけは、誰にも譲りたくないです」
「……そうか」
「こんなわがままな女ですけれど、ソニックさん、守ってくれますか?」

トウカは真っすぐにソニックを見つめる。ソニックもその真摯な眼差しを受け止める──音もなく視線が交錯する。

「当然だ。俺は受けた仕事は必ずやり遂げる。今までも、これからもだ」
「頼りにしてますよ」
「ああ。大船に乗ったつもりでいろ」

心なしか胸を張って、誇らしげに宣言するソニックに、トウカは柔らかく頬を綻ばせた。穏やかな微笑を湛えながら、シフォンケーキを口へ運ぶ。

彼女はまるで、わかっていない──どれだけ危ない橋を渡ろうとしているのか、どれだけ険しい道を選ぼうとしているのか、欠片ほども正しく理解していない。それでも彼女を守るために命を懸けようとしている自分の方がいっそ滑稽なのだろう、とソニックはやや自暴自棄になっている。

だって──仕方がないだろう。
心の底から守りたいと思ってしまったのだから。

人間というイキモノがいかに欲に塗れた汚い存在なのかを知らず、どこまでも危なっかしくて、汚れたものに触れたことさえない、神話に出てくる妖精のように純粋な彼女の涙なんて見たくもないと──思ってしまったのだから。

きっかけは覚えていない。
どうでもいい。
ただ──仕事という建前を振りかざして、彼女と過ごすこの時間が、今までに経験したことのない充足を齎してくれている。それだけでいいとソニックは感じている。

昔の自分が見たら笑うだろうか。
牙が折れてしまったと失望するだろうか。
丸くなってしまったと唾を吐くだろうか。

それも──どうでもいいことだった。

しかしソニック自身ほんの少し戸惑ってもいる。なにせ初めてのことなのだ。こんなふうに誰かのことを想いながら共に暮らしたことなどない。目に入るすべてが、耳に聞こえるなにもかもが、完膚なきまでに未体験の新世界なのだ。

紅茶が冷める前に飲んでしまわなければ、などと思ったのも、初めてだった──喉を滑る温かい液体の甘さに浸りながら、ソニックは頭の隅でぼんやりと“今日の晩飯はなにを食べようか”などと、とりとめもないことを考えている。

それも──そう。
初めてのことだった。








OH!マイフェアリー

(きみがいれば、どこだって天国のようさ)



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