murmur | ナノ





「委員長ー! さ、な、だ、いいんちょー!」

廊下を歩いていた真田の耳に、自分を呼ぶ元気のいい声が届いた。何事かと足を止め、辺りを見渡す──窓の向こうに広がる中庭から、こちらに駆けてくる後輩の姿が見えた。

「……トウカ?」
「はー、やっと見つけましたよ」

トウカは窓枠にもたれかかるようにして、ぜえぜえと肩で息をしている。額にも汗が浮いていた。相当あちこち走り回ったのだろう。満身創痍の彼女の側まで歩み寄って、真田は──その小さな脳天に、持っていたフラットファイルの背で軽くチョップを入れた。

「あいたっ」
「校内を走るな。たわけが」
「うう……委員長ひどい……女の子に暴力……」
「そういえばお前も女子だったな」
「ひどいー! 鬼ー! テニスの鬼ー! 皇帝ー!」

意味不明な罵詈雑言を投げつけながら、トウカは地団太を踏んだ。よく見てみれば彼女は上履きのままである。恐らく校舎から玄関を通らずそのまま外に出たのだろう。曲がりなりにも風紀委員という肩書きを持ちながら、彼女からは校則を守ろうという清廉な意識が欠片ほども感じられない。

「お前には風紀委員としての自覚が足りん」
「へいへい。たるんどってどうもごめんちゃいね」
「先輩に向かってその態度はなんだ」

立海大付属中は広しといえど、質実剛健を絵に描いたような男である真田にこんな言動で接することができるのはトウカくらいのものだろう。実際トウカの友人は真田を怖がっているようで、彼女が真田に対してフリーダムなボケをかます度に顔を青褪めさせている。

真田が副部長を務める男子テニス部は、常勝不敗をスローガンに掲げる厳しい一団である。試合に負けた者には彼から直々に鉄拳制裁が下るというのは、校内では知らぬ者はいないほど有名な話なのだった。そんな恐ろしい男を怒らせてしまったら──と、下級生の、しかも女子生徒となれば怯えるのも仕方がないといえば、まあ、仕方がない。

そう考えると、トウカは実に稀有な存在だといえる。学友ばかりでなく教師からさえも一目置かれている自分に対して憚ることなく、自然体のまま接してくる年下のオンナノコに、実のところ真田は緊張しているのだった。誰にも言わないけれど、彼女に話しかけられると胸の奥がざわざわして落ち着かなくなる。これまでに会ったことのないタイプの人間に、少しだけ──戸惑っている。

かといって、不愉快なのかと問われると。
そういうわけでは決してないのだけれど。

「これから部活ですか?」
「そうだ。もう大会が近いからな」
「頑張ってくださいねえ。あたし応援してます」
「……用事はそれだけか?」
「あ、そうだ。渡すものがあるんでした」

ぽんっと手を打って、トウカはポケットから折り畳まれたプリントを取り出し、それを持った腕を窓の向こうから伸ばした。訝りながらもそれを受け取って開いて、その書面を見て、真田は「あ」と彼らしからぬ間の抜けた声を漏らした。

「……昼休みの臨時委員会の……」
「委員長、それ、教室に置いてったでしょう。大事なヤツなんだから、忘れちゃダメですよぉ」
「わざわざ持ってきてくれたのか?」
「ふふふ、ひとつ貸しですね」

ニヤニヤと意味ありげに口角を吊り上げるトウカ。

「先生に見つかる前に回収しましたから、お咎めはないと思います。まー委員長もお忙しくていらっしゃるでしょうから、あたしのような暇人はこれくらいさせていただきますよ」
「……すまなかったな。手数をかけた」
「いえいえ。困ったときはお互い様ですし」

失態を責めるでもなく、不注意を叱るでもなく、笑って受け流す。真田がこれまでに直面したことのない対応だった。ミステイクの許されない環境に身を置いて、常に緊張感のなかで生きている真田にとって、それはとても新鮮な感覚だった。わずかばかり、心拍数が上がっている。

「それじゃ、あたしはこれで失礼します。呼び止めちゃってすいませんでした」
「いや、謝るのはこっちだ。迷惑をかけてしまった」
「いいんですよ。委員長たぶん疲れてるんです」

そう言ってトウカは──にかっ、と人懐っこい満面の笑みを真田に向けた。
夏の太陽を真っすぐ目指して伸びる向日葵のように、純粋で、大らかで、一切の柵がない表情。

心臓が一際おおきく跳ねた気がした。

「ではっ! あんまり無理しちゃダメですよー!」

仰々しく敬礼などして、トウカは走り去っていった。中庭を横切って、反対側の壁の窓枠に手をかけて、そこからひらりと体を滑り込ませて、彼女の姿は見えなくなった。

校内を走るな、土足のまま外に出るな、しかも汚れた上履きのまま校舎に入るとは何事だ、そもそも窓は出入口じゃないだろう、行儀の悪い──彼女の傍若無人に対するさまざまな叱責の言葉が、真田の脳裏に泡のように浮かんでは消えていく。普段の彼ならば追いかけて首根っこ捕まえて懇々と怒鳴りつけていたところなのだが、どういうわけだか、そんな気分にはならなかった。

「なんなんだ、一体……」
「なんなんだって、そりゃ、恋だろう」

独り言に返事があった。驚いて振り返ると、背後にクラブメイトの柳がいつの間にか立っていた。まったく気配を感じなかった。

「お、お前、いつからそこに」
「弦一郎にも遂に春がやってきたようだな」
「なんの話だ?」
「彼女、素行はあまりよくないようだが、俺は高く評価しているんだ」
「……? どうしてだ」
「このあいだ図書館でドグラ・マグラと堕落論と人間失格を続けて読んでいるのを見た。普通なら発狂しそうなものだが、彼女は平然としていたな。ああ、あれはいい女だと思ったものだ」
「……よくわからんが」
「いずれわかる。お前のような朴念仁でもな」

さらりと失礼なことを言われたが、もう反論する気にもならなかった。

おかしい。
なにかが絶対的におかしい。

こんなのは自分らしくないとわかってはいるのに──どうしたらいいのかわからない。じりじりと燃えるような、爆発しそうなほど膨らんだ焦燥感に、ただ踊らされている。

この得体の知れない塊が破裂したら。
世界はどんなふうに色を変えるのだろうか。

それは恐ろしい悪寒であると同時に、またどこか楽しみな予感でもあるのだということに、このときの真田はまだ気がついていないのだった。








恋の導火線

(カウントダウンは、とっくに始まっているのです)



※七海様リクエスト