murmur | ナノ





彼女の仕事場である“探偵事務所”は相変わらず小奇麗に掃除が行き届いていて、彼女の品の良さというか、育ちの素晴らしさが見て取れる。このビルディング自体はかなり昔に建てられたものなので、白い外壁は薄く汚れて全体的にくすんでいる上にところどころ罅も入っているが、ひとたび中に入ってしまえばそこは建築の老朽化を感じさせない清潔感あふれる空間だった。

ガラスの扉をくぐると、そこはちょっとした待合室になっている。彼女が不在のときにやってきた客が腰を下ろして寛ぐためのスペースだ。四畳半くらいの広さしかないが、隅には手入れの行き届いた観葉植物が置かれており、それ以外に余計なものは飾られていないので、窮屈さはあまり感じられない。

ここで彼女の帰りを待ったことも何度かあったが、今日はその必要はないようだった。この待合室と奥のオフィスを隔てるドアには“OPEN お気軽にお声かけください”というプレートが掛けられていた。俺はごくりと唾を飲み込んでからノブを掴んで、捻って、押し開けた。

「……あらぁ、無免ライダーさん。ご機嫌よう」

彼女は高級そうなアンティーク風のソファで優雅にコーヒーを飲んでいた。肘掛にしなだれかかるような姿勢で横になって、左手にソーサー、右手にカップを持って、アポイントメントもなしに訪れた俺を人懐っこい笑顔で出迎えた。

「どういった御用件? お仕事かしらん?」
「……約束を果たしに来た。トウカ」

俺は彼女の向かいに──シックな木製のローテーブルを挟んだ向かいのソファに座って、真正面から彼女を──トウカを見据えた。トウカは体を起こそうとする素振りもなく、猫のようにしなやかな寝姿でコーヒーを啜っている。だらしのない仕種であるはずなのに、彼女からはどこか高貴な雰囲気が漂っていた。まるで王妃を目の前にしたような、いっそ畏れ多いほどの気品が。

「約束って?」
「これを見てくれ」

俺はトウカに一枚の書類を差し出した。彼女の両手は塞がっているので、テーブルの上に置いた。トウカはカップを傾けながらその書面に目を通していく。瞬きの度に音がしそうなほど長い睫毛の色気に、うっとり見惚れそうになってしまう。

「……へぇえ、無免さん、C級1位になったのねぇ」
「そうだ。昨日、正式に通知が来たんだ」
「おめでたいわぁ。お祝いしないとねぇ」
「それは嬉しいが、その前に、約束を果たそう」
「どんなお約束だったかしらん?」

テーブルにソーサーとカップを置いて、しかし寝転がった姿勢は頑なに変えないまま、トウカは小首を傾いだ。

「C級1位になれたら、俺の恋人になってくれると」
「そういえば、そんなお話もしたわねぇ」
「条件はクリアした。だから──俺と、結婚を前提に、付き合ってほしい!」

思わず大声を出してしまった。
しかし今更、引っ込みがつくはずもない。俺は膝の上に乗せた拳を強く握り、愉快そうに口を斜めにしているトウカをほとんど睨むように見つめた。

彼女と出会ったのは、俺がひとりのヒーローとして、とある賞金首を追っていた三か月ほど前のことだ。官憲に対する嗅覚が異常に鋭いとでもいうのか、逃げるのがやたらと上手いヤツで、他のヒーローたちもそいつの尻尾すら掴めずにいた。

そんな折に、トウカが俺の前にふらりと現れて「賞金首の居場所を知っているけれど、あなた、買いますか?」と問うてきたのだ。瑠璃と黒と黄が斑模様を描くビビッドな色合いのコートを羽織る彼女は、まるで蝶のように美しかったのを今でも覚えている。

藁にも縋る思いで、俺は首を縦に振った。それまで“情報”を金で遣り取りしたことなどなかったので、それが高いのか安いのか、その頃の俺にはわからなかった。今でもわからないままだ。

しかし結果として俺はその賞金首を捕まえることができた。その功績が認められて、一気に順位が上がった。通帳の残高が冗談みたいな数字になっていた。呆然としていた俺の前に再びカラフルな出で立ちの彼女が現れて、こう言った──「お買い上げ、誠にありがとうございましたぁ」と。

有体に表すなら、一目惚れだったのだ。
雷が直撃したみたいな衝撃だった。
理由などない。理屈もない。彼女のミステリアスな艶やかさに、ただ心を奪われた。

自分よりも若い(ように見えるが、実際のところは定かでない)女性が単独で“探偵”などという、時には危ない橋を渡ることもある特殊な職業を生業としているその経緯は俺の知るところではない。きっと複雑な事情があるのだろう。

トウカを危険から守るのは自分の仕事だと思った。使命だと思った。だから俺は必死になって、躍起になって、彼女から出された条件をクリアするために日々戦ってきた。そしてやっとそれを果たすことができたのだ。ついに彼女と晴れて結ばれる。彼女は横になったまま、すらりと細い足を組み直して、つややかな唇を開いた。

「無免さんはぁ、私とお付き合いして、なにをしたいのかしらん?」
「……なにを……って」
「男と女だものぉ。いろいろあるでしょお?」
「それは……その……食事とか……」
「お食事ぃ?」
「おいしいおでんの屋台を知ってて……」
「おでん?」

なにがおかしかったのかはわからないが、どうやら俺の発言は彼女のツボに入ったようで、けらけらと大笑いされてしまった。抱腹絶倒されてしまった。

「これまでいろぉんな男と会ってきたけど、おでんに誘われたのは初めてだわぁ」
「き、気を悪くしたなら謝る」
「とんでもないわぁ。あなた面白いひとねぇ」

眦に滲んだ涙を白魚めいた指で拭って、トウカは肩を震わせている。

「あなたとお付き合いするのも悪くなさそうねぇ」
「! じゃあ──」
「だけどぉ」

目の前で喋っていたトウカの姿が、はたりと消えた。なんの脈絡もなく、忽然と俺の前からいなくなった。突然の出来事に俺が硬直していると──後ろから首筋を撫でられて、思わず飛び上がってしまった。

「うわっ!?」
「今のも目で追えないようじゃあ、お話にならないわねぇ」

慌てて振り返ると、いつの間にか彼女がそこに立っていた。まったく見えなかった。出会ったときに纏っていたのと同じカラフルなコートの袖を肘まで通して引っ掛けていて、まるで天女の羽衣のようだった。

「申し訳ないけれど、私これからお仕事なのぉ。また出直してくださいな」
「ま、待ってくれ! まだ話が終わってない!」
「残念だわぁ。タイムアップよぉ」
「そんな──」
「だけどあなた面白いから、またチャンスをあげないこともないわぁ。そうねぇ……」

トウカは笑った。
その表情に釘付けにされて動けなくなる。

「あたしを捕まえることができたらぁ、お食事くらい一緒に行ってあげるわよん」
「な……そんな、話が違う!」
「ごめんあそばせ」

俺に背を向け、コートを翻しながら、彼女はさっさとドアへ向かって歩いていく。去り際にこちらを振り返って、ちっちっ、と気障ったらしく人差し指を振ってみせた。

「女は気紛れなのよぉ。無免ライダーさん」

そう残して、トウカは事務所を出ていった。瑠璃と黒と黄に彩られた彼女の背中はまるで南国の空を気ままに舞う蝶のようで──とてもこんなしみったれた男が野蛮に虫取り網を振り回すことなどできそうになかった。

雲行きは前途多難だった。
俺はがっくりと肩を落として、しかしそれでも諦めきれない自分の浅ましさを恨みがましく思いながら、いつまでもドアを睨んでいた。








蝶々夫人

(ひらひら、ふらふら、ごめんあそばせ)



※大和悠奇様リクエスト