murmur | ナノ





正式にヒーロー協会の総合技術顧問としての籍を獲得したベルティーユに与えられた開発室は、個人が所有するものとしては少し規模が大きすぎるのではないかというような広さであった。面積だけでなく設備も充実している。比喩でなく、この世に存在するあらゆる学問の研究実験がこの部屋にある機材だけで完璧に行えてしまうだろう。協会の財力と科学力に感心すると同時に、それらの精密機器を自分ひとりですべて動かせてしまうベルティーユの人間離れした天才的頭脳にジェノスは改めて舌を巻いた。

「素粒子の観測機なんて、なにに使うんだ……」
「現在はμ粒子を崩壊させずに観測する研究をしている。ミューオンニュートリノ、反電子トリノなどの通常電子に変化する前の状態だね。グルーオン陽子やクォーク以外の安定素粒子を観測する方法を確立して、宇宙空間のダークマターの解析を試み、そのエネルギーを実用的なものに……おっと、余計な話だったかな」
「いえ。勉強になります」
「そうかい? いつでも講義を開くから、また時間があるときに声をかけてくれると嬉しいよ」

ベルティーユはおどけるように片方の眉を上げて笑った。部屋の奥のデスクにジェノスを案内し、来客用のスツールに座るよう勧めた。自分も愛用の事務椅子に腰かけ、肘掛に寄りかかるようにしてすらりと長い足を組んだ。

「さて、調子はどうだい? 深海王にボディを半壊……どころじゃないな。四分の三壊させられてから、いくつかパーツを新しいものに換装しただろう。それらの動作は正常かい」
「はい。今のところ、問題はありません」
「それは重畳。いくつか回路そのものを変更していたから不安だったのだが。やはりクセーノ博士の手腕は素晴らしい。いや、ジェノス氏は若いから、適応能力が高いのかな」
「年齢は関係あるのですか?」
「脳の活動が活発かどうかという意味合いでは、大いに関係がある。根本的なバイタリティ、倫理的な自制力のない素体では、制御できずに暴走してしまうだろうね」

暴走──という単語に、四年前の惨劇を思い出した。
ジェノスが固く拳を握り締めているのを見て、ベルティーユは息を洩らした。

「君は冷静で頭もいいが、歳相応に熱くもあるのだね」
「……すみません」
「やめたまえ、謝ることじゃない。私の方こそ言葉を選ぶべきだった。悪かったね」
「いえ──それで、依頼の件なのですが」
「ああ、そうだったね。既にある程度の準備はしてあるよ」
「お忙しいのに無理を言って申し訳ありません」
「それも謝ることじゃないな。悩める若人のために尽力するのは、年長者の義務だよ」

さらりと言って、ベルティーユは悪戯っぽく口角を上げた。

「それで、ヒズミとは近頃どうなんだい」
「なぜヒズミの名前が……」
「今回の君の依頼の理由は、ヒズミとロックフェスに行くためなのだろう? 随分と仲睦まじいようだと思ってね」

要するに出歯亀か──ジェノスは溜息をついた。

適当にはぐらかすこともできたが、奇遇なことに彼女とはつい先日ちょっとした“進展”があったばかりだ。それについてはどうにも不完全燃焼なオチがついてしまって、実のところジェノスは心中で悶々としていたのだった。

しかしまさかその最たる原因である乱入者サイタマに相談するわけにもいかず、まさかまさかヒズミに打ち明けて蒸し返すのも気が引けるし、まさかまさかまさか年下の女子高生であるシキミに話すことなど論外であるし──とどのつまり、八方塞がりの心境だったのだ。ジェノス本人も気づいていないうちに己の胸に吹き溜まっていた藁にも縋りたい思いが、彼の口を軽くしてしまった。

「……ヒズミに伝えました」
「伝えた? なにをだい?」
「お前が好きだと」

ひゅう、とベルティーユが口笛を吹いた。

「Bravo! O joie! それでどうなったんだい?」
「そのときは、これといってなにも……」
「なんだいなんだい情けない。グッといってガバッといってドカンといってしまえばよかったじゃないか。せっかく若いのだから」
「せっかく、の使い方が適切でない気がするのですが」
「細かいことは気にしないでくれたまえ」
「……まあ、俺も男ですから……その……少しくらいは……やましい気持ちもありましたが」
「キスくらいはしてやろうとでも思ったのかい?」
「……教授、ひょっとして見てたんですか?」

思わずそう言ってしまった。なによりも明瞭な肯定を返してしまった。ベルティーユはますます興奮した様子で、やや前のめりになりながら根掘り葉掘り聞き出そうとしてくる。

「それで、どうしたんだい? Je t'embrasse? Bisou? Gros bisou? それとも……Baiser?」
「あの、母国語になってますが」
「言い直した方がいいかい?」
「……いえ、結構です。さっきも言いましたが、これといってなにもなかったんです」
「なんだ、つまらないな。……そうだ、今回の依頼の準備ついでに私が趣味で製作した男性用セクサロイドのボディを改造してジェノス氏に」
「結構です」
「遠慮するな。人肌の質感や体温の再現度も抜群で、異性との触れ合いを究極的にリアルに楽しめる最高傑作なんだ。マニアックな性癖にも対応できるよう、バイブレーション機能なんかも搭載して──」
「結構だ!!」

卑猥な方向に流れかけた教授を、どうにか堰き止める。彼女の故郷は愛の国と称されるだけあって、そういうアレに奔放すぎるというか、恥じらいがなさすぎるというか、とにかく慎ましやかでない。

「もっと自分に正直になった方が得だと思うがね。これからの人生、まだ長いのだし」
「ヒズミにそういった乱暴を働く気はありません」
「合意の上なら問題ないだろう?」
「……まあ、それは……」
「ヒズミも嫌がらないと思うがね」
「わからないでしょう、そんなもの」
「彼女は押しに弱いようだからね。押し倒して耳元で囁いたら一発じゃないのかい」

うっかりその情景を想像してしまった。ジェノスは軽く頭を振って、脳裏から雑念を追い払った。

「とにかく、俺にそういう気はありませんので」
「つれない男だな」
「あいつが笑って毎日を過ごしてくれれば、俺はそれでいいんです」

忌まわしい“事故”によって、一度はすべてを失った彼女が。
胸を張って生きていけるようになれたなら。

それだけで。

「ふむ。君はつくづくいい男だな」
「……褒め言葉として受け取っておきます」
「つれないのには変わりないがね」
「……………………」
「さてさて、本題に戻ろうか」

しれっと話の向きを変え、ベルティーユは足を組み直した。

「私はこれから重役との会議に出席しなければならないので、詳しいことはドロワットに伝えてある。ドロワットは一階の整備室に──深海王に壊されたボディを修復したあの部屋にいるから、そこで説明を聞いてくれ。私も一時間ほどで戻るから、なにか聞きたいことがあれば、そのときに」
「承知しました。ありがとうございます」

慇懃に頭を下げて、ジェノスは指示された整備室へ向かうために部屋を出ていった。かくして室内にはベルティーユが単独で残され──てはいなかった。もうひとりいた。
ずっといたのだった。

巨大な機械の裏側、デスクからは見えない場所に置かれたベッドの上に。

「……と、いうわけらしいが」

事務椅子に座ったまま、ベルティーユがその人物へ話しかけた。返事はない。その人物は──ベッドの脇に立つ点滴の針が刺さった腕で膝を抱えて体を丸め、長い白髪をシーツに散らしている。

「どうやら随分と大切に愛されているようじゃあないか」

その言葉にも──返事はない。

「さっきも言ったがね、これからの人生まだ長いのだし、もっと自分に正直に生きた方が得であるだろうと余計なお世話を焼かせてもらうよ。では、私は会議に出てくる。点滴が終わったら、そのまま帰っていい。針は丁寧に抜くように。折れて血管に入りでもしたら一大事だからね」

そう言い残して、ベルティーユも研究室を去っていった。ばたん、とドアの閉まる音がして、やっとその人物は──ヒズミは顔を上げた。目尻に涙をいっぱいに溜めて、熟れた林檎のように顔を真っ赤にして。

「あンのサイボーグ野郎…………」

まるで呪詛のように絞り出されたヒズミの独り言を聞いている者は、誰もいなかった。

そして、そんな彼女が心の隅でふと──“Baiser”も、まあ、彼となら悪くないかも知れない、などと考えてしまい、勝手にまたシーツの上で悶絶していたことを知る者も、また誰もいなかった。








フレンチ・キス

(Je t'embrasse…一般的な、挨拶の意味でのキス)
(Gros bisou…親友同士の、砕けた軽い調子のキス)

(Baiser…心から愛する相手との、情欲の熱いキス)



※詩織様リクエスト