murmur | ナノ





とあるワンルーム・マンションの一室の前に、サイタマはやってきていた。

ポケットから取り出した合鍵で扉を開け、中に入る。静まりかえっていた。なるべく物音を立てないようにリビングを覗く。壁際に置かれたベッドの上、薄いピンクの羽毛布団にくるまってトウカはすやすやと眠っていた。そっと枕元に腰を下ろし、寝顔を窺ってみる。高熱に魘されていた昨日より血色が芳しい。少しは体調が回復してきたということだろうか。

「心配させやがって」

ぼそりと漏らした呟きに反応したのかどうかは定かでないが、トウカの瞼がぴくぴくと動いた。そして薄っすらと開く。潤んだ瞳がサイタマを捉えた。

「……サイタマさん?」
「おう」
「来てくれたんだ」
「起こしちまって悪かったな」
「ううん。サイタマさんが来てくれなかったら、明日の朝まで寝てたかも」

時刻は現在、午後一時を回ったところである。サイコロ転がして出た目のトークで盛り上がる番組が放送中のはずだ。テレビは電源を落とされて部屋の隅で沈黙しているので、ひょっとしたらゴルフの特番でもやっているのかも知れないけれど。

「昨日の晩……俺が帰ってから、ずっと寝てたのか?」
「うん」
「じゃあメシも食ってないんだな」
「朝ごはん食べなきゃ」
「もう昼だけどな」

サイタマは提げていたスーパーのレジ袋をがさがさと漁った。そこに入っているのはインスタントの雑穀入り白粥のパックとフルーツ缶である。風邪をひいてグロッキーに陥ったトウカでも食べやすいようにと、消化のいいものを選んで行きがけに買い込んできたのだ。

「食欲あるか?」
「正直あんまりない……けど」
「けど?」
「サイタマさんが作ってくれたものなら食べれる」

そう言って、トウカはふにゃっと笑う。
あまりにも締まりのない無防備さで。

──ずっきゅん!

と、サイタマは心臓のど真ん中を撃ち抜かれた気分だった。

「……お前、その顔ほかの男の前ですんなよ」
「え? なんの話?」
「なーんでもなーいでーすよー」

適当にごまかして、サイタマはキッチンで調理に取り掛かった。病人食なんて生まれてこのかた作ったことがないのでレトルト食品に頼る形になってしまったのだが、年下の恋人にあんな漫画みたいなクソかわいいことを言ってもらえるならちゃんと勉強しておけばよかった。予習しておくべきだった。今更そんな反省をしたところで後悔は先に立たないのだけれど、覆水は盆に返らないのだけれど──どうしたって悔しさは否めない。

男とはすべからく見栄を張りたい生き物なのである。
惚れた女が相手ならば、それは猶のこと。

それでも宣言通りサイタマの拵えた昼餉(本人は朝食だと主張しているが)を完食して、デザートの黄桃もぺろりと平らげて、食後の熱い緑茶をすするトウカに、サイタマは満足そうだった。

「ごちそうさまでした」
「お粗末さんでした」
「はー、めっちゃおいしかった」
「そりゃ俺の腕じゃなくて、メーカーの企業努力だ」
「でも、サイタマさんが来てくれなかったら食べられなかったわけだし。ありがとですよ」
「……………………」

おかしい。
なんかおかしいぞ。

確かにトウカはいつも素直で、つまらない意地を張ったり、強がってかわいげのないことを口走ったりするタイプの女の子ではないけれど──それにしたって今日は。
デレ成分が濃すぎるような気がする。
胃もたれしそうだ。

寝乱れたパジャマ姿でそんなことをのたまわれたら。

いろいろと耐えられる自信がない。

「……お前さ」
「なに?」
「熱でもおありでいらっしゃるんですか?」
「えっありますけど」
「知ってますけど」
「知ってると思ってましたけど」

サイタマの発言を“らしくもない従順さを揶揄する嫌味”だと受け取ったトウカは、しかし笑顔を崩さない。照れ臭そうに鼻の頭を掻いて、目を泳がせる。

「ほら、よく言うじゃん。体が弱ると人恋しくなるって」
「……あー」
「それでちょっと寂しかったから。来てもらえて嬉しかったの。感謝してるんだよ」
「………………」
「ほんと優しいサイタマさん。すきっ」
「……………………」
「だいすきっ」

あ。
これは。

これはもうちょっとダメですね。

「……トウカ」
「? なに? サイタマさん」
「こっち来い」
「あんまり寄ると風邪うつしちゃうし……」
「いいから」

サイタマに押し切られ、トウカはもそもそと彼の正面へ移動した。お互い向かい合う姿勢になる。サイタマはどこか遠慮がちにしているトウカに構わず、有無を言わさずぐっと抱き寄せて、顔を至近距離まで近づけた。トウカの頬がみるみる赤く熟れていく。

「あ、ちょ、近いですサイタマさん」
「寂しかったんだろ?」
「それは……その……っ」
「トウカ」

囁きながら、耳に唇を押し当てた。腕の中でふるりと震えるトウカの細い肢体にどうしようもなく劣情を煽られる。

「やばい、やばいです、サイタマさん」
「うん。俺もちょっとヤバい」

耳の裏に、頬に、首筋に啄むような口付けを落としつつ、サイタマは右手をトウカのパジャマの裾から内側へ侵入させる。掌から伝わる体温がいつもより高いのは、彼女を蝕む熱のせいなのか、それとも、それ以外に要因があるのか。

「ん、っふ……くすぐったい、」
「くすぐったいだけ?」
「……いじわる」

涙目で口を尖らせるトウカ。その表情が逆にサイタマを焚きつけていることに、彼女は果たして気がついているのだろうか。

「風邪ひいても知らないんだから」
「ここ数年、風邪なんてひいてねーからなあ。新鮮でいいかも知れない。それに」
「それに……?」
「お前からうつされた風邪なら、多分、すげー興奮する」
「へんたい」
「男は大体みんな変態なんだよ。嫌いか?」
「……他の変態はやだけど、サイタマさんなら、いいよ」

──またコイツは。
憚りもせずにそんな台詞を吐きやがる。

「人にうつした方が早く治るって言うしだな。さっさと俺に押しつけて、元気になれよ」
「うん……」
「そしたら手厚く看病してくれればいいから」
「……くそう。めっちゃ甘やかしてやる」
「そりゃ楽しみだな」

トウカをそっと持ち上げて、ゆっくりベッドに下ろす。二人分の体重を受け止めて軋むスプリングの音が、いやに耳についた。

「サイタマさん」
「なに?」
「ちゃんと優しくしてよね、病人なんだから」
「……自信ねーなあ」

苦笑して、サイタマはトウカの唇に自らのそれを重ねた。彼女の希望になるべく応えようと、腫れ物に触るように、割れ物を扱うように。

サイタマのその健気で殊勝な努力が一体どこまで続いたのか、当事者である彼ら以外に知る者もなく──。








ポリッジで朝食を

(ポリッジ…穀類を水や牛乳で柔らかく煮た料理のこと)
(たっぷりの愛情と、ひとつまみの下心)



※静様リクエスト