murmur | ナノ





すっかり日課となっているサイタマ宅の掃除をこなしていたジェノスの聴覚を、聞き慣れないエンジン音が刺激した。乾拭きしていた窓から外を覗いてみると、マンションの前に見覚えのないハイエースが今まさに停まろうとしているところだった。

まさか敵襲か──と身構えかけたジェノスだったが、その車の助手席から降りてきた人物を視認して、ぴたりと動きが止まった。膝まで届く長い白髪を戦旗のように揺らめかす後ろ姿。見間違えようもない。

「ヒズミ……?」

彼女は後部座席のドアをスライドして開け、奥からなにかを引っ張り出した。大きなダンボール箱だった。中に一体なにが入っているのかまではここからではわからなかったが、とても若い女性が持ち上げられるようなサイズではなかった。しかし、なにせヒズミは純然たる“人外”の存在である──こともなげに、ひょいっ、と右腕だけでそれを担いで肩に乗せ、空いている左手でドアを閉めた。

ヒズミは運転席サイドの窓越しに車内にいる誰かと一言二言なにやら会話をして、丁寧に頭を下げて、発進したハイエースを見送って、マンションへ入った。自分の位置から彼女が見えなくなってから、やっとジェノスは我に返った。停止していた作業を猛然と再開する。ガラスに指紋ひとつなくなるまでしっかりと拭きあげて、清掃用具を片付けて、玄関から外に出た。するとちょうどタイミングよくヒズミがこの階まで上がってきたところだった。ヒズミはジェノスに気づくと「あれっ」と驚いたような声を出した。

「ご在宅でいらっしゃったか」
「ああ。……なんだ、その荷物は」
「あ、これ? ちょっと買い物してきたんだ」
「買い物?」
「ちょうどいいや。ジェノスくん、もしよかったら、ちょっと手伝ってくれない?」

手伝う──とは。
なんのことやら想像もつかなかったが、ジェノスは二つ返事で了承した。他ならぬヒズミの頼みである。断れるわけがなかった。とりあえずダンボールを代わりに持ってやった。ヒズミはこれくらい平気だから、と遠慮していたが、ジェノスは半ば奪うようにして巨大な箱を自分の腕に抱えてしまう。予想していたよりもかなり重かった。

ヒズミの部屋は相変わらずモノが少なく殺風景で、年頃の女性が暮らすには寂しすぎるのではないかとジェノスは思う。居候の自分が言えた義理ではないのだけれど──ともかく、もう少し余計なインテリアがあってもいいのではないだろうか。テーブル、シングルベッド、壁掛け時計、ほとんど空っぽのキャビネット、冷蔵庫、オーブン、電子レンジ。生きるのに必要最低限のものしか置かれていないこの環境は、ちょっとばかりいただけない。

「これはどこに置けばいいんだ? そもそもなんなんだ、これは。なにを買ったんだ」
「ふふふ、気になるようだな。開けてみたまえ」

芝居がかった口調で勿体振るヒズミを訝りながらも、ジェノスは言われた通りにした。ガムテープをべりべりと剥がして、封を解く──果たしてその中に鎮座していたのは。

「……テレビか」
「奮発していいヤツ買っちゃった」
「いいんじゃないか。娯楽は大事だ」
「おっとっと、意外な台詞」

無駄遣いするなって叱られるの覚悟してたのに、とヒズミは笑った。

「わざわざ自分で持って帰ってきたのか?」
「本当は電気屋さんに配送お願いするつもりだったんだけど、ここの住所を伝えたら“サービス対象外地域です”って苦い顔されちゃって。どうしようかと思って教授に相談したら、車を回してくれたんだ。すげー助かったよ。今度の検査のとき改めてお礼しなきゃな」
「あのハイエースは教授が運転していたのか」
「いや、教授は車を貸してくれただけ。運転してたのは別の御仁だったよ」
「? 誰が運転してたんだ」
「ドロワットちゃん」
「…………………………」

衝撃的な事実に、ジェノスは自分の耳を疑った。

「警察に見つかったらどうしようかとひやひやしたね」
「この国の官憲は一体なにをしているんだ……」

幼気な少女があんな大型車の運転席に座って公道を走っているのに誰も見咎めなかったのか、いやそもそもあの小さい体でペダルまで足が届くのか、と煩悶しているジェノスを余所に、ヒズミは着々と梱包を解いていく。40インチ前後くらいか、と推測しつつ、ジェノスも手を貸した。その最中、ダンボールの底にテレビの付属品とは別のなにかを発見し、そっと拾い上げる──黒い長方形の、それは据え置きの家庭用ゲーム機だった。

「これも買ったのか?」
「うん。ゲームやりたくてテレビ買ったようなもんだから」

ブルーレイとかも見られるし、とヒズミはご機嫌のようだった。壮絶な紆余曲折を経てサイボーグになったとはいえジェノスも十代なので、今までにテレビゲームをプレイした経験くらいはある。暇潰しの手段としてこれほど優秀なものはないという事情も人並みに実感している。

ハードと一緒くたに入っていたソフト数本は、どれも知っている有名メーカーの作品だった。そのうちのひとつ、世界的な人気を誇るロールプレイングゲームを手に取ってみる。白地にタイトルだけというシンプルなパッケージ。確か少し前に発売され、美しいコンピュータ・グラフィック映像が話題になったシリーズ通算十三作目だ。

「RPGが好きなのか」
「アクションもパズルもシューティングも面白かったらやるよ。ゲーセンで音ゲーとかもするし。やりこみ要素の強いゲームならなんでもいいかな」
「多趣味だな」
「楽しみは多い方が得だろ。……さて、ジェノスくん」
「? どうした、改まって」

急に正座して向き直ってきたヒズミに、ジェノスは目を丸くする。彼女は礼をするように背中を丸めて、コードの束をジェノスに差し出した。

「配線お願いします」
「……“手伝う”っていうのは、これか」
「恥ずかしながらこういうの苦手で……申し訳ない」
「いや、構わない。貸してみろ」

ヒズミからコードを受け取って、ジェノスは部屋の角に置かれる運びと相成ったテレビの裏側に回った。てきぱきと澱みない手捌きで繋いでいく。普段もっと複雑な機器によって体を制御および調整している彼である──家電製品の配線など朝飯前だった。

朝飯前で、お茶の子さいさいだった──のだけれど。

「……あ」
「どうかした?」
「届かないところがある。隙間が細い」
「強引に突っ込めない感じ?」
「この腕だからな……壁に傷がつく。しまったな」

テレビの裏をいじくっていたジェノスが体を起こして頭を掻いた。テレビの方を動かすこともできなくはないが、そのためにはコンセントの位置などの関係上、繋いだケーブルを一旦すべて外さなければならない。とんだタイムロスだ。別に急いでいるわけではないので、それ自体にこれといって問題はないのだけれど、なんとなく勿体ない気がしてしまう。

「私がやってみようか」
「ああ、そうだな。お前なら届くだろう」
「どこにどれ挿せばいいの?」
「このプラグを、あの奥の方の……見えるか?」

俯伏せになって、ほとんど床に這いつくばって覗き込む格好のヒズミの上に身を乗り出すようにして、ジェノスが指示を出す。

「えーと……ここ? ここでいいの?」
「違う。その隣の……そこだ」
「んしょっ……とっ……これでオーケイ?」
「ああ。大丈夫……だ……」

そこでジェノスは、ふと気がついてしまった。
この状態、というか、体勢というか。
図らずも寝転がるヒズミの身動きを封じるかように自分が覆い被さって、密着している──密接している。

まるでヒズミを押し倒してしまった、みたいな。

「…………………………」
「ジェノスくん? どうかした?」
「いや、…………ちょっとな」
「? なにが…………あ」

ヒズミも状況を理解したようだった。
二人のあいだに、ぎこちない空気が流れる。

「……えーと」
「……………………」
「あーっと、その、終わったから、どいてくれると嬉しいんだけど……」
「そう、だな、……すまない」

ゆっくりと、二人の体が離れる。室内に充満する気まずさをなんとかしようと、ヒズミは努めて自然体を装いながら口を開いた。

「と、とにかく、ありがとう。助かったよ」
「いや、これくらい……どうということはない」
「えっと、その……あ、そうだ、今日の夕飯どうしようか! なんか食べたいものないですか!」
「これといって希望はないが……」
「そ、そっか、じゃあ適当に買い物行ってくるわ!」
「……俺も行く」
「え!? ななななんで!?」
「なんでって……理由がないといけないのか?」
「いや別にそういうわけじゃねーけど」
「だったらいいだろう。そろそろ先生もシキミの見舞いから帰ってくる頃だ」
「そ、そうですね、そういえばそうでしたね」

記憶に新しい、海人族の襲来。その頂点である深海王との戦いで深刻なダメージを受けたシキミは現在ヒーロー協会の管理する医療施設に入院している。命に別状はないとのことだったが、サイタマは足しげくシキミの見舞いに通っているのだった。単に暇を持て余しているだけなのだけれど、シキミにしてみればこれ以上に嬉しいことはないだろう。

「明日は私も先生についてってお見舞い行こうかな」
「そうするといい」
「ジェノスくんも来る?」
「悪いが、別件で用事がある。空いていない」

そっか、と頷いて、ヒズミは立ち上がった。猫のように大きく伸びをして、無理な姿勢で凝った筋肉を解すように肩を回した。

「そんじゃあ、……買い物、行こうか」
「ああ」

海人族との激闘で傷を負ったのはヒズミも同じなのだが、彼女のダメージは既に八割がた回復している。凄惨な痕を隠すために長袖のジャケットを着ているだけだ。

そう──隠しているのだ。
あらゆる痛みを。
誰にも見せないように。
誰にも見つからないように──秘めている。

二度と泣かせたくないひとがいる。

その決意に嘘はない。今こうしてのんびりと笑っている彼女の平穏が、もう二度と危険に晒されることのないように、なによりも誰よりも、強くなりたい──
ジェノスは一度ゆっくり目を閉じて、腰を上げた。

今日も、そして明日も、ヒズミの隣を歩いていくために。








ごめんねダーリン

(まだまだ素直になれないみたい)



※都和様リクエスト