murmur | ナノ





彼と一緒に暮らし始めて数ヶ月が経過したけれど、いまだに私は彼が笑顔で帰宅してくるところを見たことがない。いつもぐったりと疲れた様子で、悄然としていて、時には多すぎる仕事のせいで三日ほどクラブハウスに缶詰状態で戻ってこなかったりもする。

同棲を始める前から彼のワーカ・ホリックについては嫌というほど知っていたので、嫌になるほど解っていたので今更どうということもないのだけれど──これでもいい歳の大人なので寂しいとか構ってほしいとか我儘を言う気はないのだけれど、それでもやはり、心配なのだ。なにせ残念なことに、彼はもう若くない。かつてプロのサッカー選手であった彼の肉体はとっくにピークを過ぎて、急な下り坂の途中にある。あちこちに綻びが見え始める頃合だ。

と──いうような事情で。
また今日も恒生さんが燃え尽きた面持ちでマンションに帰ってきたとき、私はついつい余計なお世話で「少し休んだ方がいいんじゃないですか」と言ってしまった。

「そういうわけにはいかないよ。やっとチーム全体が軌道に乗ってきたんだ。観戦に来てくれるお客さんも増え始めて……、このチャンスは絶対に逃せない」
「なにも恒生さんばかりが無理することはないんじゃないですか?」
「俺だけが無理してるわけじゃない。他のスタッフだって頑張ってるよ。会長も副会長も、最近は真面目に電話対応したりしてくれてるみたいだしね」
「最近は、ですか」

言葉尻を拾って揚げ足を取るように私がニヤニヤと追及すると、恒生さんは頭を掻いて苦笑を漏らした。うっかりまずいことを言ってしまった、と思ったのかもしれない。

「有里さんは相変わらずですか?」
「ああ。ちょっと元気すぎるくらいだよ……あの子こそ休むべきだと思うんだよなあ。こないだ倒れたばっかりなのに」
「そうですねえ……」

話題に上っている彼女の、ETUのことになると周りが見えなくなる猪突猛進ぶりは私も目の当たりにしたことがあるだけに、頷かざるを得ない。

「まあ、この不況のご時世に、仕事があるっていうのは感謝すべきことだろう」
「そういうもんですか」
「そういうもんさ。……さてと、風呂に入ってくるとするか」
「夕飯はどうしますか? 一応、作ってありますけど……そのまま寝ますか?」
「いや、腹は減ってるから、出たら食べるよ」
「わかりました。温めておきますね」

バスルームに入っていった恒生さんを見送って、私は用意しておいた野菜の生姜炒めをレンジに投入した。その間に鯵の開きも焼いて、味噌汁に火をかける。脂質の少ない質素な食事だけれど、寝る直前にドカ食いというのはよろしくない。彼の年齢を鑑みてみれば、当然の配慮である。

三十分も経たないうちに、恒生さんはタオルで頭を拭きながら脱衣場から出てきた。寝間着のスウェットは古びてだるんだるんになっている。それだけでも充分オッサン臭いのに、握った左手で腰をとんとん叩いているものだから、余計に拍車が掛かっていた。

「恒生さん、腰が痛いんですか?」
「今日はデスクワークばっかりで、座りっぱなしだったからね」
「そうだったんですか……」

そこで私はふと、小さい頃のことを思い出した。腰痛持ちの父に、私は常日頃マッサージをしてあげていた。幼い時分は充分な力がなかったので、寝そべった父の腰の上に立って足踏みした。父は気持ちよさそうにしているし、自分も楽しいしで、私は殊更そのマッサージ遊びが好きだった。

「踏んであげましょうか」
「えっ」

恒生さんが目を見開いて私を凝視した。しまった。語弊があった。いきなりそんなことを言われたら恒生さんでなくとも「なんの話だ」と思われてしまう。誤解を生んでしまう。

「あ、いや、昔よく父の腰を足で踏んでマッサージしてあげてたので」
「ああ、そうだったのか。そういうことか」

納得したらしい恒生さんが曖昧に頷いて笑った。

「そうだなあ。ちょっとお願いしたいな」
「じゃあ、そこに寝転がってください」

私に指示されるがまま、恒生さんはリビングに敷かれたカーペットの上に伏せた。組んだ手の上に顎を乗せて、さながら流氷の上で休息を取るアザラシのようだった。その無防備な背中の少し下あたりに、私はそっと足を乗せた。ぐりっ、と徐々に体重をかけていく。

「あー、いいな、これ」
「痛くないですか?」
「全然。あー、これはいいなあ」
「恒生さん、なんかオヤジみたいですよ」
「オヤジだもの」

そんな冗談を飛ばしつつ、恒生さんは悦に入ったような息を漏らしている。私もだんだん楽しくなってきて、夢中で彼の腰を足蹴にしつづけた。なんとなくアンモラルな遊興に耽っているような気分になってくる。私はどちらかというと被虐趣味な女だと思っていたのだけれど、Sの資質も併せ持っていたのかもしれない。

「しかし、最初びっくりしたよ」
「? なにがですか?」
「いきなり“踏んであげましょうか”ってさ。女王様にでも目覚めたのかと」
「すみません。言葉が足りなくて」
「いや、いいんだ。ちょっとドキッとしたしね」

恒生さんの思いもよらない発言に、私は顔を上げた。しかし彼の表情はこの位置からでは見えない。今のところ薄くなる気配はないがしかし油断はできないであろうという旋毛しか私の目には入らない。

「若い女の子に踏まれるっていうのも、なかなかいいかもしれないな」
「恒生さん、実はドMですか?」
「どうだろうね。きみはどう思う?」

そんなことを──訊かれても。

「……もし、そうだったら」
「そうだったら?」
「がんばっていじめてあげますよ」

私の言葉に、恒生さんは声を出して大笑いした。ジョークだと取ったのだろう。私は割かし、本気なのだけれど。

いじめてみたい──と、心の奥でなにかが燻りかけているのだけれど。

「ごはん、準備しましょうか?」
「もうちょっと」
「冷めちゃいますよ」
「きみの飯は冷めてもおいしいから」
「……お世辞を言っても、なんにも出ませんよ」

どこまでも悠長に構えている彼を、私は踏みつけ続ける。

たとえばここで彼の横っ腹を思いきり蹴り飛ばしたりしてみたら、彼はどういう反応をするのだろう。痛みに呆然としながら、私の顔を信じられないような表情で見つめたりするのだろうか。そんな彼を見てみたい気もした。

(……さすがに、そんなことはできないけど)

しかし着実に、じわじわと私の中でその想像は体積を増していく。理性と欲求の戦いがあれよあれよと始まっていた。私は自分の内側で暴れる天使と悪魔の葛藤をどこか他人事のように見守りながら、少しだけ──ほんの少しだけ、彼の貧弱な腰に乗せた足に強く力を込めた。








桃色キック

(ピンクに燃える火がついちゃいそうなの)



※音都様リクエスト