murmur | ナノ


※のの様リクエスト
※短編「ホントどーなったっていいよ」続編です



足元で、丸まった毛布がもぞもぞと動いている。

まるでそれ自体が生き物であるかのようなそのふかふかの塊は、畳敷きの床を亀くらいの速度で不規則に這い回って、やがてゾンビマンの脚にぶつかり、きゃっ、と短い悲鳴をあげて、風に翻弄される毛玉のように右に左にふらつき、こてんと横に倒れた。そしてそのまま動かなくなる。

「……トウカ」

ゾンビマンが呆れたように彼女の名を呼ぶ。毛布を少しだけめくって、隙間から顔を出したのは今にも凍死しそうなほど寒さに凍えているふうのトウカ──紆余曲折を経てゾンビマンが面倒を見ることになった白蛇の化身、兼、新人ヒーローである。

「なんなんだよ、お前、その格好は」
「寒いのヨ! とっても寒い! 死んでしまうネ!」
「そういう季節だからな」
「うう……ワタシ冬眠に入りたいヨ……」
「……修行して仙人になっても蛇は蛇なんだな」

何千年も鍛錬を重ね、神通力を意のままに操れるようになったところで、変温動物の本能的な習性からは逃れられないらしい。ゾンビマンは溜め息をひとつ、壁際に置かれた背の低い衣装箪笥の上に鎮座していたガラスの灰皿を手に取った。トウカにはおよそ生活力や甲斐性と称される類の人間的な常識が備わっておらず、ゾンビマンが生存確認のためにしょっちゅう訪問している。それなりに長居をすることもあるので、手持ち無沙汰にならないよう、こうして勝手に雑誌やら灰皿やらを持ち込んでは放置しているのだった──家主であるトウカがそれをどう思っているのかわからないが、少なくとも拒否の意を示されたことはない。

卓袱台の上に灰皿を置いて、ゾンビマンはくわえた煙草に火を点けた。白い煙が和室の冷えきった空気に染み込んで、音もなく溶けていく。

「待っててやるからさっさと支度しやがれ」
「? なんの話カ?」
「昨日メシ連れてってやるって言っただろうが。聞いてなかったのか」
「そういえばそんな約束した気もするネ」
「好きなもん食わしてやるから、早く布団から出ろ」

ゾンビマンが爪先で軽く小突くと、毛布の饅頭は渋々ながら瓦解した。がたがた震えながら襖を開けて隣の部屋へ消えていったトウカの背中を見送る。なんだかんだと文句を垂れながら、彼女は大概いつもこうして自分の言うことを素直に聞く。俗世とは無縁の生活を送ってきた妖怪変化であるから、ボランティアで世話を焼いてくれるゾンビマンがいなければ明日の飯すら二進も三進もいかないわけで、もはや彼にとってトウカはペットみたいなものである。片時も目を離せない、危なっかしい野生動物を保護したみたいな、そういう心持ちで、ゾンビマンはトウカの飼育係を買って出ているのだった。

しかし、まあ──絶世の美人が己の要求を従順に呑んでくれるというのは、こう、なんというのだろう──さほど悪い気はしないのも事実である。

「……………………」

短くなった煙草の先を灰皿に押しつけると同時に、トウカが戻ってきた。フリースやらスウェットやらセーターやらをもりもり重ねて身に着け、さらにその上からダウン・ジャケットを羽織って無理矢理にボタンを留めている彼女の、達磨みたいに着脹れた姿に──ゾンビマンは思わず吹き出してしまう。

トウカはどうして笑われたのか理解できなかったようで、きょとんと目を丸くしている。血管が透けて見えそうなほど白い顔の、鼻の頭だけが寒さによって赤くなっていた。その仕種がまたなんともおかしくて、少女というよりはいっそ幼い乳児のようで、ゾンビマンは遂に我慢できなくなり、腹を抱えて、声をあげて大笑いした。



真冬の街を包む雰囲気というのは独特である。突き刺すような無色透明の寒気と、ごった返す人々のごみごみした熱気が綯い交ぜになって、湿った匂いを漂わせる。太陽が傾いて暮れかかった、分厚いグレーの雲に覆われた空は、いつもより低く見えた。折り重なる灰色の隙間からところどころ射し込む光の真っすぐな帯がどこか神々しくすらある。

「雪でも降りそうだな」

ゾンビマンがぽつりと漏らした呟きに、トウカはげんなりとした表情を浮かべた。これからますます気温が下がっていくという現実に直面して、すっかり参ってしまっているようだ──滅入ってしまっているようだ。

「早く春になればいいのヨ」
「ほんの数ヶ月だろ。我慢しろよ。何千年も生きてんだろ、お前」
「いつもは寒くなってきたら南に逃げてたヨ。だけど、もうしばらくそういうことはできないのよネ、今の私は“ひーろー”だから」

誇らしげに言うトウカだったが、衣服で丸々と膨らんだ出で立ちでそんなことをのたまわれてもコントにしか見えない。擦れ違う人々が好奇を剥き出しにした視線をトウカに送ってくる。こっそり無断で写真を撮られるくらいは覚悟していたのだが、幸いにもそんな不届き者にはまだ遭遇していない。

「んで、なに食いたいんだ」
「ハンバーグがいいヨ」
「またかよ! こないだもファミレスで食っただろーが」
「デミグラスソースよりおいしいものなんて、この世にはないヨ。ワタシ断言できるヨ」

不死である自分より何百倍も永く生きてきた仙人であるトウカにそう宣告されてしまっては、ゾンビマンに否定する術はない。まあ味の好みなんて十人十色で千変万化だろう──と思わなくもないが、それにしたって世界で最も美味なのがファミリーレストランのハンバーグだと無垢な笑顔で信じ込んでいる彼女にはついつい渋い顔になってしまう。

「あんな電子レンジでチンしただけの冷凍肉より、もっとうまいもんはたくさんあると思うぜ」
「たとえば?」
「……………………」

具体例を求められてしまうと、返す回答に詰まらざるを得ない。もともとゾンビマンとて食にうるさい質ではないのだ──安いジャンクフードだろうが、高級フレンチだろうが、腹に入ってしまえばただの栄養源でしかない。そこに大した差異があるとは思えないのだった。

「……ファミレス行くか」
「うむ、素直でよろし。それがいいヨ」
「なんで上から目線なんだよ」

トウカに軽くデコピンをかまして、ゾンビマンはつい先日も二人で訪れたファミレスを目指すことにした。考えてみれば、下手に格式張った店に行って思うように煙草も吸えずイライラさせられるより、大衆食堂で気を遣わずにだらだらしていた方がずっとましだろう。これくらいの時間帯なら空いているはずだ。暗くなって混雑しだす前にスペースを陣取ってしまおう。ゾンビマンは気持ちを切り替えて、チェスターフィールドコートの裾を踊らせながら歩いていく。その隣ではトウカが吹き荒ぶ冷たい風に震えていた。

「うー、寒い寒いネ。早くあったかいとこ入りたいヨ」
「そうだな」
「それでいっぱいハンバーグ食べるヨ」
「好きにしろよ」
「ワタシ今までずっとお食事ひとりだったからネ。こうやって誰かと一緒にごはん食べるの、初めてだカラ。とっても楽しいヨ。嬉しいヨ」
「……そうか」

なんとも、まあ──殊勝な感性でいらっしゃる。
ほんのちょっと、かわいらしいと、思わなくも、なくも、ない。

「毎日こうやって、ずーっとアナタとごはん食べたいネ」
「……そりゃ、俺を口説いてんのか?」
「? どういう意味かナ」
「なんでもねーよ。寒いんだろ、さっさと歩け」

吐き捨てるように言って歩調を速めるゾンビマンに、トウカは不満も漏らさずちょこちょことついていく。相変わらずにこにこと表情を緩めたまま──親鴨の後ろに並ぶ雛のようだった。

冬が過ぎ去り、春が訪れる頃にも。
こうしてふたりでいるのだろうか。

ぼんやりと少し先の未来へ思いを馳せながら、ゾンビマンは目的地へ向かって足を止めることなく動かしていく。なんとなく、口が寂しい。早く暖房の効いた店内の喫煙席に腰を下ろして一服を決め込みたい。その一心だけで、ゾンビマンは雑踏に紛れて前へ前へと進む。

背後に彼女の気配を感じながら。
妙に落ち着かない気分で、冬の都会を通りすぎていく。