murmur | ナノ




呼び出されたのは、なんの変哲もない、どの街にも数件はテナントを構える大手チェーンの喫茶店だった。

大通りから少し外れた場所にある店舗のためか、客の姿は疎らである。さほど広くない店内には音量を絞られたジャズ・アレンジのBGMがゆったりと流れているのみで、人の会話する声もなく、とても静かだ。言葉を選ばずに言ってしまえば、閑散としている──そんな印象だった。

意を決して店内に一歩を踏み出して、トウカは既に店内にいるはずの待ち合わせ相手を探した。カップで口を湿らせつつ疲れた顔で新聞を読んでいるサラリーマン、暇を持て余しチョコレート・ケーキをつついてゴシップ女性誌に目を通す主婦風の女性、イヤホンで音楽を聴きながら参考書を開いてノートになにやら書き込んでいる男子学生──

奥まったボックス席を陣取って、退屈そうにオレンジジュースを啜っている、彼。

どくん、と心臓が大きく跳ね上がった。全身から汗が噴き出して、指先が震え、今すぐに踵を返して全速力で逃げてしまいたい衝動に駆られる。しかしそれより先に、彼が──サイタマが入口に立ち尽くすトウカに気がついた。互いの視線がまっすぐかち合って、途端にぱあっと顔を輝かせるサイタマの無邪気な笑顔に眩暈がした──目の前が真っ暗になりそうだった。

いらっしゃいませ、と寄ってきたウェイトレスにトウカはおずおずと会釈をして、連れが先に来ていることを告げた。そしてサイタマの向かいに腰を下ろす。しかしトウカはサイタマに明るく笑いかけるでもなく、柔らかく話しかけるでもなく、ただ俯いて悲愴に暮れた面持ちで唇を噛んでいる。そんな彼女に反して、サイタマは底抜けに楽しそうだ。テーブルの隅に立てられたメニューを手に取って、優しく差し出す。

それは気の利いた紳士的サーヴィスのはずなのに、トウカはサイタマの行動に怯えて肩を竦ませた。彼の一挙一動が恐ろしくて仕方ない──とでもいうかのように。

「…………あ、っ」

猟銃を向けられた仔鹿めいた仕種で硬直して狼狽するトウカに、サイタマは口元を綻ばせた。どこまでも穏やかな、凪いだ海に似た表情で、じっとトウカを見つめている。

「好きなもの頼めよ。俺の奢りだから」
「え……」
「男が出すのは当然だろ?」

どこか誇らしげに、サイタマはそんなことを言う。
まるで恋人同士みたいな、甘ったるい陶酔を含ませて。

その熱に浮かされた声音に蘇るのは──

「………………っ」

さあっ、と血の気が引いていく。激しい耳鳴り。頭の中に血液の流れる音が荒れ狂う濁流のように聞こえる。悍ましい記憶を全身が拒絶している。忌まわしい恐怖に全神経が断絶していく。

強引に組み敷かれて。
闇雲に肌を暴かれて。

無理矢理に剥されて晒されて弄られて。
問答無用に舐られて啄まれて囁かれて。
滅茶苦茶に玩ばれて抱かれて犯された。

欲望のままに汚されて。
欲情のままに奪われた。

そうして、手酷く疵物にしておきながら。
愛しているなどと嗤って宣う、この男に。

「……トウカ?」

──やめて。

そんな声で呼ばないで。

「なんか顔色よくねーけど、大丈夫かよ」

誰のせいだと──思ってるの?

「そんな怖がるなよ。もうあんなひどいことしねーって。お前が今みたいに素直でいてくれればさ」
「………………」
「お前は俺の隣にいて、俺のことだけ見てたらいいよ」
「……私は、」
「お前は俺のだから」

語気を強めたわけでもないのに、有無を言わさない雰囲気があった。
その要求に逆らえば、また、きっと彼は──

「俺以外の、知らねー他のヤツになんて、絶対やらない」

サイタマがそっと手を伸ばす。目尻に涙を溜めて、今にも零れ落ちそうになっているトウカの頬を愛おしげに撫でて──機嫌よさそうに、殊更へらりと相好を崩す。

その微笑みはどこまでも純粋で、無垢に見える。
彼が謳う睦言の、底の底の裏の裏に一体なにが潜んでいるのか──トウカの瞳には、あまりにも暗すぎて全貌がよく見えない。

「俺が守ってやるからさ。ずっとお前の傍にいる。だから笑ってくれ」
「……………………」
「──笑えよ」

サイタマの指先が瞼に触れる。他人の体温が、薄い皮膚からじわりじわりと染み込んでくる。不可視の心をも腐らせる猛毒のように。

視界が滲む。
輪郭を失う。

溶けていく正気のなかで──

果たして自分は、うまく笑えていただろうか。

「……そういえば」

ふとなにかを思い出したように、サイタマが目を大きくした。

「人から聞いたけど、お前、ついこないだ誕生日だったんだってな」
「え、……あ、うん、……そう、だよ……」
「あー、しまったなー。もっと早く知ってればな。ちょっと奮発していいもん買ってやれたのに」

そう言って相変わらずトウカの頬を撫で続けているサイタマは本当に悔しそうで、それでいて嬉しそうで──結ばれたばかりのパートナーとの間に生まれた、新鮮な発見を愉しんでいるようだった。

「今日はお前の行きたいとこ連れてってやるよ」
「あ……えっ……と、」
「お前が欲しいものなら、なんでも贈るぜ。花でも、洋服でも、靴でも、バッグでも、うまいメシでも──俺の命だって懸けられる」
「……………………」
「トウカ」

動転するトウカの手を取って、サイタマは目を細める。
すらりと白い指と指の間を慈しみながら擽って。
もう離さないと主張するかのように、きゅうっ、と優しく握って。

──そしてまた、底抜けに明るく嗤う。

「誕生日、おめでとう」