murmur | ナノ
いっそ要塞といっても差し支えのない難攻不落のヒーロー協会本部内の、とある場所に造られたその部屋は、ひどく殺風景な空間だった。中心に簡素な木製の椅子がひとつ置かれているだけで、他に調度品の類はなにも設えられていない。
関係各位に“取調室”と通称されるそこは、まるで病室のように清潔な白に囲まれている。その壁のひとつは長方形に刳り抜かれ、特別製の強化アクリルガラスが填め込まれ、隣室から様子が覗けるようになっていた。分厚い無色透明の板越しに、数人の男女が深刻そうな面持ちでなにやら話し合っているのが“取調室”の側からも見える。彼らはダークカラーのスーツを着用した者と、白衣を着込んだ医者か科学者かといった趣きの者とにすっぱり二分されていた。共通しているのは、全員が顔面蒼白で、なにやら想定外のビッグ・トラブルに狼狽しているらしい、切羽詰まった雰囲気。
一体なにを喋っているのだろうか。
脳を動かしたのは、須臾の間だけだった。
もう──どうでもいいことだ。
なにもかもが、世界中のありとあらゆる、すべてが。
耐え難い吐き気を催すほどに──
どうでもよくて。
どうにもならない。
どうにでもなればいい。
ジェノスは椅子の背凭れに深く体重を預けて、ぼんやりと乳白色に霞みがかった意識さえも放り出してしまおうと、ゆっくり目を閉じた。
そこへ不躾に飛び込んできた──聞き慣れた声。
心地よい微睡みから現実へ引き戻される。
一息に。
熱が冷める。
「──ジェノス!!」
アクリルガラスの窓の向こうに、サイタマがいた。ジェノスは驚きを隠せなかった。誰かが呼んだのか、それとも騒ぎを嗅ぎつけて来たのか──真実は定かでなかったが、確かにサイタマはそこに立っていた。その表情から読み取れるのは、焦燥と動揺と悲嘆と──ほんの少しの怒り、だろうか。
スーツ姿の幹部の制止を振り切って、サイタマは窓を強く叩いた。そして叫ぶ。さっきまで遮断されていた隣室の音声がジェノスにも届いている──備えつけのマイクをオンにしたらしい。サイタマの怒声が、壁に埋め込まれたスピーカーから鮮明に聞こえてくる。
「お前なにしてんだ、この野郎」
「……先生」
「なにしてんだって聞いてるんだよ!!」
サイタマの大音声が響き渡る。
「嘘だろ、なんかの間違いなんだろ、そうだって言えよ」
彼の縋るような口調を、このときジェノスは初めて耳にした。
こんなに脆い顔も──初めて目の当たりにした。
突いたら崩れてしまいそうな。
心から憧れてやまない偉大なる最強の師に、そんな思いをさせてしまっていることが、ジェノスはなにより心苦しかった。
それでも。
罪状は変わらない。
判決は──決して覆らない。
「嘘でも、冗談でも、ありませんよ、先生」
サイタマの言葉がこちらへ通じているのと同じように、果たして自分の声はサイタマに届いているのだろうかという懸念はあったが、みるみる歪んでいく彼の表情を鑑みるに、しっかり聞こえているようだ。ならば心配はない。ここで己の語るべきことを、包み隠さず語るだけだ。
告白をしよう。
独白のように。
「俺が」
空白のように──自白をしよう。
「トウカを殺しました」
サイタマの双眸が大きく見開かれて。
半開きになった口が少し震えて。
「……なんでだよ」
どんな化け物も一撃のもとに粉砕してきた比類なき拳が硬く握られて、しかし殴るべき相手を見つけられず──ガラスを弱々しく叩いて、ずるずると滑り落ちていく。
「なんでだよ! お前──お前ら、好きだったんじゃねーのかよ! 幸せになるんじゃなかったのかよ! それなのに、なんで──なんで……ジェノス、……お前……この大馬鹿野郎が!!」
尊敬する男の罵倒が聴覚センサーに刺さる。
あまりにも情けなくて、自爆したい心境だったけれど。
──受け入れよう。
それくらいの覚悟はできている。
「……俺は、トウカを愛していました」
細く呟きながら、脳裏に彼女の虚像を過ぎらせる。
透き通るような肌と。
すらりと伸びる長い首と。
痩せぎすの骨張った手の甲と。
肋の浮いた横腹と。
最期に見た、あの狂おしいほどに悲しい涙の粒と。
「あいつ毎日、泣くんですよ、本当に毎日」
彼女を苛んで蝕んでいった病と。
日を追うごとに増えていった錠剤と。
死んだように眠る寒い夜と。
残酷に生活のスタートを繰り返す朝と。
無邪気に嘲笑う人々と。
「もう嫌だ、苦しい、死にたいって、泣くんですよ、毎日」
そうして正常な形を失っていった、彼女の心を。
脳裏に過ぎらせて、ジェノスは思いの丈を吐き続ける。
「怖い、って泣くんですよ、つらいって、産まれてこなければよかったって、悪い夢を見て飛び起きて、過呼吸になって、子供みたいに泣きながら、泣いて、死にたい、死にたいって言うんですよ、俺に、生きていけないって、死にたいって、泣くんですよ、毎日」
彼女に巣食っていた闇が。
彼女を救えなかった罪が。
真綿のように首を絞める。
「ごめんなさい、って泣くんですよ、悪くないのに泣くんです、ごめんなさい、ごめんなさい、お父さんお母さんごめんなさいって謝るんです、泣くんですよ、毎日、本当に毎日、薬がないと外にも出られなくて、それでも必死に世界についていって、泣くんです、もう嫌だ、怖い、死にたいって」
そんな彼女を見ていられなくて。
そんな彼女は見ていたくなくて。
終わらせて。
終わらせた。
この温度のない指先で。
彼女を苦しめていた全部から。
介抱して──解放した。
「俺が」
それが顛末だった。
それだけの、終末だった。
「トウカを、殺しました……」
そして行き着いた先はこんな奈落の底だった。
どうして──こんなことになってしまったのだろう。
こんなはずじゃなかったのに。
望んでいたのは。
願っていたのは。
こんなエンディングでは、断じてなかった。
そう、ずっと思い描いていたのは──
……──あれ?
ずっと求めていたのは、どんな結末だったっけ?
もう、なにも、わからない。マイクの電源が落とされたようで、隣室の喧騒が聞こえなくなった。社会的に影響力の大きいS級ヒーローが一般女性を殺害したなどという不祥事が公に広まれば、協会は体裁を保てなくなる。しかもその原因が痴情の縺れともなれば尚更だ。総力を挙げて揉み消しに掛かるのだろう──トウカの死は、そうして捻じ曲げられ、誰ひとり彼女を苦しめていた懊悩を知らぬまま彼女のことを忘れていく。
それでいいのだろう、と思う。
気が狂いそうなほど怖くて恐ろしかった世界からの抹消。
いっそ酷薄に根こそぎ全部、なかったことにされる霧消。
きっと彼女は、それをこそ渇望していた。
「…………………………」
ひっそり瞼を下ろし、ジェノスはトウカの虚像へ語りかける。
こっちのことは、心配いらない。
俺はまだ、正常な動作を維持できている。
ああ、嘘じゃあない、俺は大丈夫だ。
お前が不安がるようなことはなにもないよ。
だから、ゆっくりおやすみ。
……そうだ、最期にひとこと、聞いてほしいことがある。
どうか疑わずに、これだけは信じてほしい。
こんなことになってしまったけれど。
それでも、俺はね。
お前のことを、本当に愛していたんだよ?