murmur | ナノ




どさっ、と手に提げていたスーパーの袋がフローリングの床に落ちた。

その音に驚いたサイタマが、こちらを振り返る。言い逃れのしようもないほど確実に互いの視線が交錯したが、サイタマもトウカも呆然と押し黙ったまま固まっていた。時間が停止したかのような錯覚を起こしそうだったが、室内に響き渡るビデオの音声がそんな馬鹿げた現実逃避を嘲笑うかのように否定している。

正々堂々、正真正銘、完膚なきまでにレストリクテッドな映像作品──いかがわしい行為に耽る男女の乱れた姿をこれでもかと官能的に捉えた、いわゆるアダルト・ビデオと呼称される類のそれ。

濃度の高いガムシロップみたいに甘くとろけた、鼓膜に粘りつく女優の嬌声は、しどけなく上擦りながら「せんせい、せんせい、だめ、せんせい」と繰り返している。見てみれば彼女は画面の中でセーラー服を着用していた。どう見ても学生の年齢には見えなかったが、それは言わないのがコスプレ萌えモノ観賞の際のお約束なのだろう。暗黙の了解というヤツなのだろう。

到底トウカには理解できそうにもなかったが、どうやらサイタマはそうでもないらしい──床に胡坐をかいて、背中を少し丸めながら、トウカが帰ってきたのにも気づかないくらい夢中でごそごそと己の股座を弄くっていたくらいなのだから。

相当に愉しかったのだろう。
……悦かったのだろう。さぞかし。

「……なにしてんの先生」
「待ってくれ違う。これは違うんだ話を聞いてくれ」

瞬息で摺り下ろしていた下着を正しい位置に直し、DVDプレイヤーの電源ごと落としビデオを強制終了し、トウカに向かって平身低頭しながら言い募ろうとするサイタマは、なんともいえず不様だった。とても隕石を素手で打ち砕き、街ひとつ守った男の振舞だとは思えなかった。見るに耐えない。死ぬほど胸が痛い。今年度ベストオブいたたまれない大賞ノミネートどころか文句なしの異論なしの満場一致ぶっちぎり優勝である。

「……ミネラルウォーター買ってくるの忘れたからもっかいスーパー行ってくる」
「お、おい待て、待ってくれトウカ、これには深い理由が」
「コソコソ隠れてAV見る深い理由ってなに?」
「えぁあ……いや……その……それは……アレだよ」
「……いいよ別に私そういうの咎めたりしないから……先生も男だもんね……いいよ、わかるよ、わかりますよ……うん……大丈夫……大丈夫ですんで……」

どもりながらもごもごとそんなことを言ってはみても、この修羅場が丸く収まるわけもなく──ボクサーパンツの薄い布を押し上げて昂ぶりを主張するサイタマのサイタマが今にもコンニチハしそうな状況は変わらない。彼の額に切羽詰まって浮いた汗と、火照って赤みを増した目元とが相俟って、否応なしに情事の記憶を脳裏に甦らされる──かあっ、とトウカの顔面に熱が集中した。

「……邪魔者は消えますのでどうぞごゆっくり!!」

遂に限界を迎え、トウカはダッシュで玄関を飛び出た。サイタマの制止を叫ぶ声も虚しく、彼女は足を止めることなく全速力でその場から逃亡したのだった。



そして現在トウカはZ市の中心部、老若男女の行き交う駅前に位置する大手チェーンのカフェにいた。カウンター席の端を陣取り、テーブルに両肘をついて、某ネルフ指揮官のポーズでかれこれ数十分ほど硬直している──店側にしてみればいい迷惑だろうが、満席というほどの混雑ではないため、追い出されるようなことはなかった。それもいつまで続くかわからないが、こんな精神状態でまっすぐ自宅に帰れる自信はない。神に祈るような気持ちで、トウカは先程の出来事を思い返す。

「……………………」

テーブルの上にレンタルショップの貸出用ナイロンバッグが放り出されていたので、恐らくあのDVDはサイタマが借りてきたものなのだろう。自ら極彩色のアダルト・コーナーに足を踏み入れ、陳列棚に犇めく数々の破廉恥きわまりないパッケージ群からあれを選び抜き、少ない有り金はたいて一時の快楽に身を委ねようとしたわけだ。

それ自体は悪いことではない。さっきサイタマにも言ったことだけれど、トウカはそういった性欲の自発的解消を推奨こそしないが、神経質に否定しているわけでもないのだ。若い男なのだから、そりゃまあ溜まるものは溜まるだろう。それはどうぞ好きに発散していただきたい。

しかし──あれは些か恥ずかしすぎる。

耳の奥にこびりついて離れない、女優のあられもない悲鳴。
肉体を犯され暴かれ、雌の本能のまま劣情に焦がされて啜り泣きながら喘いでいた、せんせい、というあのフレーズ。

(……私も普段あんな声で……)

自分の思考に自分で撃沈した。脳天から煙が出ているのではなかろうかと本気で心配になる。勝手に眦に涙が浮かんで、目の前がぼやけた。

滲む視界に比例して正常な判断能力もみるみる失われていくようだった。あんな惨めな状態で置き去りにしてしまったサイタマのことで頭がいっぱいになる。なんで私が罪悪感を覚えなければならないのか、と憤慨しないでもないが、アポイントメントも取らずに押しかけて彼のプライヴェートなお楽しみタイムを妨害してしまった事実は否めない。申し訳なさが風船のように膨らんでいく。

(謝る、べき、なのかなあ……)

きゅうっ、と心臓の裏側が収縮するような感覚。全身がむずむずして、うずうずして、気持ちが悪い。網膜に焼きついたサイタマの無防備な後ろ姿。沸き上がる肉欲に溺れ自慰行為に没頭する彼の、とろけきって澱んだ光の宿った瞳。偽りない本性。それらすべてが向けられていたのは、あの──“せんせい”という、あの、ただひとこと。

「……先生、」

気づけば口に出していた。じわり、と腹の底からなにかが込み上げてくる。地に足がつかず、ふわふわと浮いて、踏ん張っていなければそのままどこかへ飛んでいってしまいそうだった。

「こんなの絶対おかしいよ……」

泣き言を漏らしつつ、トウカはカップに口をつけた。中身はすっかり冷め切ってしまっている。ひたすらに甘い。喉が焼ける。なにもかもが麻痺した呆然自失の脳味噌でオーダーしたので、商品名など覚えていない。店員に勧められるがままトッピングしまくったので、人体の糖分に対する許容量を超えてしまったのだろうか。なんたる不覚。みっともなさすぎる。まったくもって滑稽だ──ふたりともども、揃いも揃って。

なんということだ。
明日も明日とて朝が早いというのに、

今夜はもう、眠れそうにない。