murmur | ナノ




電池の切れかけた玩具みたいに生気の感じられないレジ係の店員から袋を受け取って、トウカはコンビニをあとにした。チャイムを鳴らしながら開いた自動ドアをくぐると、途端に猛烈な寒気が肌を刺す。一気に指先から冷えて臓腑まで凍える心地がした。星のない夜空の物悲しさ、心寂しさと相俟って、なんだか途轍もなく不安な気分になってしまう──それをごまかすように、買ったばかりの煙草に火を灯した。先端が赤くなって、人体に悪影響を及ぼす煙が細く立ち上る。

ややあって、今度はジェノスが店内から出てきた。彼は出入口の前できょろきょろと辺りを見回し、灰皿のそばに立つトウカを発見すると、呆れたふうに溜息をつきながら寄ってきた。

「飽きもせずによく吸うな、お前は」
「これがないと上手に呼吸できないんだよ」
「またそういうくだらない嘘を」
「本当だって」

紫煙をくゆらせながら悪戯っぽく笑うトウカに、ジェノスはますます眉間の皺を深くする。それでもやめろと言わないのは、そこそこ長い付き合いを経て、そんな忠告は彼女にとって無意味だと思い知らされたからだ。海で暮らす魚に懇々と「体が冷えるから陸に上がれ」なんて説いたところで、実を結ぶ道理もない。

「寒いだろう。車の中で吸え」
「えっ? いいの? レンタカーなのに」
「汚さなければいいんじゃないのか」

ジェノスの言い種は適当だったが、真冬の夜更けに満ちる空気は相変わらずしんと透き通った冷たさで頬を撫で続けている。暖房の効いた車内でゆっくりできるなら、それ以上に僥倖なことはない。唇に煙草を挟んだまま、歩き出したジェノスの背中を追って、トウカはパーキング・エリアの隅に停められた車の助手席に身を滑らせた。

この日、仕事が終わったら食事にでも行かないか、と声をかけてきたのはジェノスの方だった。急な誘いだったが、基本的にトウカのスケジュール帳は空白だらけであり、おまけに翌日は幸いにもオフだったので、二つ返事で了承したのだった。

ジェノスが雑誌だかテレビだかで見たという人気のレストランで手の込んだ料理に舌鼓を打ち、レンタル・ショップに寄り道して映画のDVDを数本ほど借り、そうこうしているうちに時刻は日付変更線を跨ぐ寸前まで来ていた。そろそろお開きだろうか。トウカは目を細めて、ひそやかに睫毛を伏せる。

交際している若い男女ともなれば、これからが本番といっためくるめくアバンチュールな時間帯なのだろうけれど、残念ながら彼らにはそういった色事との縁がない。奥手だとか潔癖だとか、不干渉だとか不感症だとか、そんなメンタルに起因する理由ではなく──もっと直接的に、フィジカルに原因する問題として、ふたりの前には大きな壁があった。

トウカはそれと悟られぬよう、ちらりと横目にジェノスの腕を窺う。分厚いダウン・ジャケットの袖から生える掌は、鈍色の硬質な金属によって構成されている。コンビニの外壁に取りつけられた、電灯の埋め込まれた看板が放つ人工的な明かりを反射して、ぼんやりと白く光っていた。見ている方が寒いからと上着を羽織らせてはいるが、サイボーグである彼には本来そんなものは必要ないのだ。それでもトウカに言われるがまま嵩張る衣服に身を包んでくれているのを、嬉しいと思ってしまう。まったくもって、幼稚きわまりない感慨である──我ながら。

わずかに開けた窓の隙間から、吐き出す煙が逃げていく。狭い車内から尾を引いて飛び出して、あっという間に外気に溶けて見えなくなる。一体どういうわけなのか、ジェノスはさっきから正面を睨んだまま動かない。シートの背凭れに深く体重を預けて、だらりと腕を横に垂らして──なにかを熟慮して熟考しているように見えるが、ただぼけっとしているだけだと言われれば、そんな気もする。夕方くらいの電車でよく見かける、疲れきった大学生みたいだとトウカは思った。

短くなった煙草をドリンクホルダーの空き缶に捨てて、トウカは窓を閉めた。お待たせしました、とおどけたふうに口を斜めにしてみたが、ジェノスから返ってきたのは「ああ」という短い返事だけだった。メタリックな右手が緩慢な所作で持ち上がってハンドルを握る。

──握っただけだった。
一向に発車しようとしないジェノスを訝しんで、トウカは首だけ回して彼を見た。その横顔は彫刻作品のように美しく精悍としていて、やっぱりこの子は自分なんかにはもったいない男前だと再認識したところで、トウカは言葉を選びつつ口を開く。

「どうかした?」
「…………トウカ」
「ん?」
「気色の悪いことを言ってもいいか」

ジェノスの唐突な申し出に、トウカは狼狽えながらも、とりあえず頷いた。とても面白いジョークなんて言える質ではない彼のことである──冗談ではないのだろう。

「大丈夫だけど、……なに? 改まって」
「今夜は帰したくない」
「ぶふっ」

思わず変な声が出た。
ジェノスがぎろりとこちらを恨みがましく睥睨してきたが、だって致し方ないではないか──そんな恋愛ドラマのワンシーンにでも出てきそうな、テンプレートな口説き文句をのたまわれたのは、初めてなのだから。

「そ、それは、その、えーと、どういう」
「……言わなくてもわかるだろう」
「……………………」

ということは、つまり、今の発言において補足など蛇足であるということで、そのままの意味であるということで──それが余計にトウカを混乱させる。

「だっ、て、ジェノスくん、って……そういうアレは……その……できない、ん、じゃないの?」

彼のボディを構成しているのは、ほとんどが戦闘のためのシステム機構である。現代の機械工学の粋を結集して造り上げられた、精密なマシンの数々によって統御される人型破壊兵器に、まさか生殖機能を残しておく余裕があるわけがない。それはジェノス本人が言っていたことで、そういうものなのかとトウカも納得していたのだけれど──どうやら、その絶対的な前提が覆されようとしているらしい。

いや──そもそもトウカの早とちりだという可能性もある。ジェノスはただこのまま逢瀬を引き延ばしたいだけで、その手の肉欲に塗れた行為に及ぶつもりなど毛頭もないのかも知れない。二十四時間営業のファミリーレストランでだらだらと朝まで時間を潰したい、とか──もしそうだとしたらとんだ勘違いだ。赤っ恥だ。人生の汚点だ。はしたないにも程度というものがある。顔に血液が集中するのを自覚しながら、どうにか取り繕おうと口を開きかけたトウカよりも先に、ジェノスがぽつりと言葉を漏らした。

「……どうにかなってしまったんだ、俺は」

ハンドルに乗せた右手に額を押し当てて、ジェノスは項垂れる。

「へっ?」
「お前が隣にいてくれるだけでいいと思ってたんだ。こうしてたまに食事をして、くだらない雑談をして、次に会う約束を楽しみにして……故郷を失ってサイボーグになった俺でも、人間らしく生きていくことができるんだと実感できれば、それでよかった。幸せだった。……最初は、それだけだった」
「……ジェノスくん……」
「それなのに、次第に欲が出てきた。もっと触れたいとか、独り占めしたいとか、汚いことばかり考えるようになった。……お前は純粋に俺のことを好いてくれているのに、損得勘定を抜きにして俺みたいな普通じゃない男と一緒にいる覚悟を決めてくれたのに、それだけでは足りなくなってしまった。どうしようもない。どうしようもなく業の深い人間なんだ、俺は……」

丸まった彼の背中には、いつもの凛々しさなど微塵もない。雄々しさなど欠片もない。剥き出しになった心の柔らかい部分が吹き荒ぶ風の寒さに震えている。

とてもじゃないが──見ていられない。
ギアに掛けられた左手に、トウカはそっと自分の掌を重ねた。

「…………、トウカ」
「そんなのお互い様だと思うけど」
「……?」
「多分ジェノスくん、私のこと見誤ってる」

ジェノスの視線がこちらに向いたのを気配で察したが、トウカはそれに応えることができない。今ここで彼の顔なんて直視してしまったら──心臓が破裂してしまいそうだ。

「私は──きっとジェノスくんが想像してるより百倍くらい強突で、強欲な女だよ」
「……………………」
「なんの取り柄のない枯れた女なのにさ、ジェノスくんみたいな若い子が……好きで好きで死んじゃいそうな男の子が自分のことを邪な目で見てくれるなんて嬉しい、なんて悦んでるんだ──どうしようもないのは、私の方だ。そうだろ? そう思わない? ……だからさ」

ジェノスの無機質でメタリックな指に、己のそれを絡ませて──緊張にわななく喉から、消え入りそうな声を絞り出す。

「──好きにしてよ」

対する返答はなく、代わりにジェノスは無言のまま動いた。身を乗り出して、トウカに覆い被さる姿勢になる。そして強引に唇を奪われて、隙間から無遠慮に舌を捻じ込まれる──口腔を蹂躙するがごとくに蠢く、粘着質な生温かさに濡れたそれが造り物だとはとても信じ難いなあ、とトウカはいつも思うのだった。

「ん、っふ、……はぁ……あ」

圧し掛かるジェノスの重みで、ずるり、とトウカのが体が沈む。逃げようにも後頭部を押さえ込まれているので、わずかに首を捩ることすらできない。オイまさかコイツここで営む気か、コンビニの駐車場だぞ、S級ヒーローがそんな公序良俗に反するアンモラルに耽溺していいのか、とにわかに焦り出したトウカの胸の内を知ってか知らずか、ようやくジェノスは顔を離した。酸素を求めて金魚のようにはくはくと口を開閉させるトウカの頬を撫でる。

「すまない、その、……自制が……」
「……さすが十代は激しくていらっしゃる」
「頼むから茶化さないでくれ」

肩に手を回され、ぎゅっ、と力強く抱きしめられる。その仕種はまるで怖い夢から醒めた直後の子供めいていて、トウカは苦笑混じりに「ごめんね」と呟き、あやすように背中を撫でた。

「ていうか、実際、その……できるの? そういうアレ」
「擬似神経回路を搭載したパーツを作成した。接触した対象の圧力や温度などの情報を電気信号に変換して、触覚として脳に伝達する機能を備えた義体を……」
「あー、そういう難しい話はいいや。どうせ私にゃわからん」
「……だろうな」
「そうすんなり肯定されると立つ瀬がねーな……」

ジェノスの狼藉によって乱れた髪を手櫛でおざなりに直して、トウカは改めてシートベルトをしっかりと締めた。これから進むのは、彼女にとって未知の道である──用心しておくに越したことはないだろう。

それは運転席に坐し、いよいよエンジンを稼働させたジェノスにしても同じなのだった。これから自分たちが向かう果てに一体なにがあるのか、誰にもわからない。誰にも教えてもらえない。不器用で不作法な手探りで泳いでいくしかない──どこまでも広がる暗い海に似た、途方に暮れるほどに底の見えない夜のなかを。

「……で、どこ行くの?」
「昨日のうちに調べておいた、近くのホテルに」
「……………………」
「心配するな。なるべく清潔で評判のいいところを探したつもりだ。風呂が広くて、朝食もサービスで出るらしいぞ」
「ジェノスくん周到すぎワロタ」
「当然だろう。本気なんだ、こっちは」

ジェノスが微かに笑う。彼のそんな無邪気な表情を見たのは久し振りのような気がして、トウカもつられて口角を上げた。駐車場を離脱して、滑走路みたいに真っすぐ伸びる車道の先に──自由にアクセルを踏み込んで、邪魔なブレーキなど放り捨て、目障りなレーダーとメーターには一瞥もくれず、フル・スロットルで飛び立っていく。

一枚しかない片道切符で。
壁の向こう側へと。