murmur | ナノ




ドラム缶の中で燃え盛る炎が、星のない夜空を明るく照らしていた。オレンジ色の光が肩のパーツを構成する鈍色の超合金に反射して、不気味なくらいに皓々と輝いている。ぱち、ぱちっ、と弾けて飛び散る火の粉と、焦げつくような不快な匂いが、林立する木々と生い茂る雑草に囲まれたこの場所に充満していた。

ここは地元の人間どころか、野生の獣さえ寄り付かないような、樹海の中心である。絶えず張り巡らせている生体センサーに引っ掛かる反応もない。この光景を誰かに見咎められる心配はなさそうだ。仮にも協会に所属するS級ヒーローである自分が、こんなふうに山奥でこそこそと廃棄物の処理をしているなどと知れたら、民衆の信頼はガタ落ちだろう。そんな風評を気にしたことはないが、師であるサイタマに迷惑が及ばないとも限らない。というようなわけで、事は慎重に運ばねばならなかった。

レンタカーに積んで運んできた荷物は、あらかたすべて炎の中に焼べてしまった。残すはゴミ袋ふたつだけである。口を固く閉じられた黒いビニールを破って開けて、中身のひとつを手に取る。歪な形をしたそれを、ドラム缶に放る。火の赤い影が一瞬ゆらめいて形を崩し、すぐに勢いを取り戻す。天をも炙ろうとするかのように、一層ごうごうと激しく立ち上った。

それを確認してから、もうひとつ、掴む。二対のそれの、もう片方。指先に弾力が伝わる。つい強く握ってしまって、断面から生温かい液体が溢れて滴り落ちて、草木に覆われた地面を濡らした。

掌もべったりと汚れてしまったが、それを拭こうともせず、先程と同じようにスローイングする──柔らかく、冷たく、関節の先に白魚めいた細い五指を備えた──彼女の左腕を。

その手が空中で、なにかに縋りつこうとした──ように見えた。しかしそんなものはただの錯覚だ。ばらばらに切り離された人体がひとりでに動くことなど有り得ない。サイボーグである自分だって、主脳からパージした部分を遠隔操作することなどできないのだから、生身の普通人であった彼女にそんな芸当が可能なはずがない。

そもそも──彼女の胴体は、既にドラム缶の底。
目の前の炎に包まれて灰になっている。

「………………………」

どうしてこんなことになってしまったのか、よく憶えていない。思い出すことを心が拒絶している。ただ彼女が怯えて、恐慌に陥って、自分を口汚く罵ったことは記憶にある。このストーカー野郎、とかなんとか、ひどい言い種だった。

ただ彼女が好きで、愛おしくて、傍にいたかっただけなのに。電話に出てくれなくなっても、居留守を使われても、毎日毎日毎日毎日その背中を追ってきた。物騒な昨今、夜道はどうしたって危ないからと彼女の仕事からの帰路を自宅まで見届けて、彼女の部屋の電気が消えるまで異常がないかどうか見守って、彼女が健康に過ごせるよう睡眠時間から食事から生理の周期まで把握して、すべて捧げてきた。それを否定したのは彼女だ。受け入れてくれなかったのは彼女だ。捨てたのはお前だ。残酷だったのはお前だ。人の気も知らないで逃げようとしたのはお前だ。

お前が悪いんだ。
なにもかも全部お前のせいだ。

最後に残った袋を開封する。その中身は、彼女の頭部。艶をなくした前髪の隙間から覗く二つの目を見開いて、乾いた眼球を剥き出しにしている彼女と視線が交錯した。半開きの唇から紫に変色した舌がだらりと垂れている。力尽くで引き千切ったので、首の皮はすっかり伸び切ってしまっている。骨から滲む髄液は血と混じって薄い桃色に変わり、空気に触れて黒くなった肉の表面をてらてらと潤していて、とても綺麗だった。どんな高名な芸術作品よりも神聖で、神郷で、心を捕えて離してくれない。

燃やしてしまうのは──惜しいな、と思った。

数分たっぷり悩んでから、袋を縛り直した。これだけは持って帰ろう。いつか腐って醜く崩れ落ちるまで、存分に愛でて、かわいがろう。最期まで照れ臭がって、素直に愛を享受できなかった、強情だったかわいそうな彼女を、今度こそ死ぬほど甘やかしてやるのだ。

その情景を思い浮かべたら、自然と笑みが零れた。不純物のない、どこまでも清らかに澄んだ胸の高鳴り。心臓などなくとも、この鼓動はまやかしなどではない。確かにここに、この胸の奥にあるものだ。誰にも理解されなくていい。許容されなくていい。

──俺の愛は彼女だけのものだ。

こんなふうに笑ったのは、何年振りのことだろうか。
齎された充足は、他でもない、彼女のお陰だ。

眼前で馬鹿みたいに踊る赤色のように、彼女の血も肉も骨も熔かしてしまいたい。この炎は俺の愛を映す鏡だ。もっと燃えろ、もっと膨らめ、もっと激しく、もっと、もっともっともっともっともっともっと──

薄いビニールにくるんだ彼女の頭を、ぎゅっ、と抱きしめる。
ああ、どうしようか、この幸福感を、俺はどうしたらいいと思う?
もうとても正気ではいられない。

──狂ってしまいそうだ!