murmur | ナノ




彼は今日も白いマントを赤く汚して立っていた。その姿を見る度に、胸が張り裂けそうになる。彼は怪我などしていないのだけれど、擦り傷のひとつたりとてないのだけれど、それでも彼の心が少しずつ摩耗していることを、私は知っている。

「……サイタマ先生」
「なんだトウカ、いたのか」

こんなところ歩いてたら危ないだろ、と先生は怒ったように言った。ここは先生の暮らすアパートの建つ廃墟地帯の一画で、怪人の出現件数が他に比べて異様に多く、立入禁止区域に指定されている場所だから、それも無理はないのだけれど──私は絶句して、謝ることもできない。

「見てて面白いもんじゃねーだろ」

その台詞が指しているのは、先生の足元に転がる巨大な肉塊のことなのだろう。原型など既に留めていないが、人智を超えた異形であることは容易に窺える。文明社会に仇を成す、忌むべき化け物。それが目を覆いたくなるほど無惨な死骸と化して、風に吹き曝されている。ひどく腥い匂いが鼻腔を突いた。吐き気を催す。肩に掛けていたショルダーバッグが地面に滑り落ちた。

「おい、大丈夫か?」
「……先生」
「俺んち来る途中だったんだろ? さっさと帰ろうぜ」

汚れた私のバッグを拾って、先生はこともなげに笑ってみせた。その笑顔はいつもと変わらないはずなのに、どこか凄惨とした影を孕んでいて、私は呼吸さえも忘れる。底の見えない崖の縁に追い詰められているような恐怖と不安定を感じる。

「先生、あの、あれは……」
「たまたま遭遇して、喧嘩ふっかけてきたから潰した。いつものことだよ」

いつものこと。
そう──いつものことだ。

どんなに凶悪で、どんなに凶暴な怪物でも、先生の手に掛かれば他愛もない。赤子の手を捻るように、縊るように、ただの一撃で終わってしまうのだ。

彼はその己の圧倒的な強さについて、退屈だとか張り合いがないとか愚痴を言うだけで、あまり積極的には話したがらないけれど、一度だけ私にぽつりと零したことがある。確か先生の家でお酒を飲んでいて、珍しく彼がどろどろに酔っ払っていたときのことだ。大してドラマチックでもロマンチックでもないシチュエーションの出来事だったけれど、私には衝撃だったので、今でもよく覚えている。

「俺は怖いんだ」
「このまま戦い続けて」
「もう敵なんていなくなって」
「ヒーローとしての役目を失って」
「どこにも行き場がなくなっちまうんじゃないかって」
「それが俺は怖いんだ」

誰一人として、彼とは肩を並べられない。
それは孤高であり──孤独でもある。
そんな過酷な夢を追っている彼を私は待つしかない。

飛び立つ背中を見送るだけの、
止まり木でいることしかできないのだ。

遠ざかる。
遠ざかる。
遠ざかる。
彼の傷だらけの魂が遠ざかっていく。

「先生」
「どうした? トウカ」
「もう無理しないで」

私の絞り出した懇願に、先生は目を丸くしている。脈絡も前置きもなくて、その意図が掴めないのだろう。どこまでも支離滅裂で、筋なんて通っていなくて──それでも。

「別に無理してるつもりはねーけど」
「でも、でもっ、私は、ぼろぼろになっていく先生なんて、もう、見たくないんです」
「……俺がそんなになったことなんてあったか?」

それはない。
一度もない。

だけどもそういう問題ではないのだ。

すべては見えないところで。
その鍛え抜かれた肉体の内側で蝕んでいる。

「先生が、苦しんで、疲れていくところなんて、私は見たくないんですよ、そんなふうに、どうして戦うんですか、誰も先生を満たしてくれないのに、強さを認めてくれないのに、どうして傷ついていくんですか、そうやって、どうして自分でつらい道を選ぼうとするんですか、先生」
「どうしてって……」

捲し立てる私に、先生は困ったように鼻の頭を掻いて、視線を斜め上へ泳がせた。そして答える。なんでもないことのように──別に気取ったふうでもなく、特に格好つけたふうでもなく。

「ヒーローだからな」
「………………」
「ヒーローが逃げたら誰が戦うんだよ」

と。
言った。

「心配させてんなら、悪りいなって思うけど、でも俺はヒーローだから」
「先生……」
「誰にもわかってもらえなくたって、俺は戦うよ。独りでも」

──ああ。
それがあなたの矜持なのか。

あなたの──孤立無援に耐えながらでも拳を握る理由なのか。

「そんな話はいいから、早く帰ろうぜ。そんで一緒にスーパー行こう。五時からタイムセールでさ、トイレットペーパーがめっちゃくちゃ安いんだよ。お一人様ひとつ限定だから、お前も来てくれ」

先生はどこまでも飄々としている。淡々としている。けれど、その裏側に悲しみを秘めていることを、寂しさを隠していることを、私は知っている。私だけが知っている。

──それならば。
私だけはずっと彼の傍らにいよう。
冷たい雨が降れば傘になる。
激しい風が吹けば壁になる。
たとえ彼が、それを望まなくとも。

いつか彼が安息の地へ辿り着くことを信じて。
茨道を駆ける彼が帰り道を見失わないように。

私はここで、道標の役目を果たそう。

「先生」
「ん? なに?」
「大好きです」

先生は照れたように笑った。全身に返り血を浴びながら、まるで少年のように、顔を綻ばせる。それはとても恐ろしくて、でも美しくて、なんてかわいいひとなんだろうと私は思った。

ああ──どうか、神様。
私のこの頼りなく細い両腕が、この笑顔を守り抜けますように。
彼の果てしない旅路が終わりを迎える、そのときまで。






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菩提樹 - 天野月子