murmur | ナノ




帰宅してすぐにスーツの上着を脱いで、ハンガーに掛けるのも億劫だった。ついつい、その辺に放り出してしまう。彼女が見たら目くじら立てて怒るだろう。いつもならば少し鬱陶しく感じてしまうところだが、なんとなく今日は、その大きなお世話が、お節介が恋しい気分だった。

疲れている──のだろうか。

サイタマは首の後ろを意味もなく撫で摩りながら、習慣のようにテレビを点けた。毒にも薬にもならないバラエティ番組が映し出される。タレントたちの軽妙なトークは気が利いていて、まあまあ面白いジョークだったけれど、あまり笑えなかった。表情筋が鉛でも流し込まれたかのように重い。

ビジネス・バッグから、昼間に面接を受けた会社のパンフレットを取り出した。掃いて捨てるほどある中小企業のひとつで、なにを請け負っているんだったか──忘れてしまった。どうせどこもかしこも似たようなことをしているのだ。しかしそうでなければ、世界は回らないのだろう。大きなモノを動かすには、大量の歯車が必要不可欠で、そしてそれらはすべからく同じ姿で同じ働きを果たさなければならない。足並みの揃った正常な動作で、進みすぎず遅れすぎず、周囲を注意深く観察しながら、不良品と判断されぬよう、欠陥品と烙印されぬよう、止まることなく生きていく。

誰にでも簡単にできることだ。
そう──誰にでも。
しかし自分はどうやら、それにすら値しない男のようだ。作った笑顔で、経歴を飾り立てて、ありもしない虚像を構築したところで、内側にある空洞は、空虚は埋まらない。何度も繰り返し練習してきたテンプレートな志望動機の裏には事実なにも持っていない、つまらない若者の正体は容易く見抜かれてしまうのだろう。そうして弾き出される。突き落とされる。

もう何枚目になるかわからない不合格通知。
あなたはここには要らない人間です。
くだらない奴ですね。
どうして生きているんですか?

「……俺が聞きたいよ」

零した独白も、誰の耳にも届かずに消えていく。
彼女ならどう返してくれるだろうか。
呆れるだろうか、叱るだろうか、冷たい目で蔑むだろうか──

そこで携帯がけたたましく鳴り出して、サイタマは飛び上がるほど驚いた。慌てて画面を確認する。そこに表示されていたのは、彼女からの着信を示す旨の文字だった。サイタマはそれに応じるのを躊躇ったが、それも一瞬だけだった。

「あ、もしもし、サイタマ?」
「おう。どうしたんだよ、トウカ」
「どうってことは別にないけど、なにしてんのかなって思って」
「今ちょうど帰ってきたとこだよ」
「そうなんだ、お疲れ。面接?」
「おう」
「どうだった?」
「面接官のリアクション的には望み薄だな」
「もー、そんなこと言ってたら受かるもんも受からないって前にも言ったじゃん。もっと自分に自信を持ちなさいよ」

受話器の向こうで口を尖らせているトウカの姿が目に浮かぶようだった。脳裏に彼女の顔を過ぎらせるだけで、それだけで、心に亀裂を生んでいた罅が少しずつ修復されていく。

「……そうだな」
「? ん? サイタマ?」
「ごめんな」
「え?」
「こんなみっともない男でさ、俺」
「……なんかあったの?」
「なんもねーよ。なんもねーんだ。俺には、なんにも……」
「…………サイタマ」

悄然とした口振りのサイタマに、トウカは珍しく言葉を選んでいるようだった。彼の様子が普段と違うということを察したらしい。

「私でよければ、話、聞くから」
「……おう」
「だから、その、次いつ会えるの? 空けとくから」
「…………明日」

冗談と本気が半分ずつ綯い交ぜになったその発言を、あっさり「わかった」と承諾してしまったトウカに、焦ったのはサイタマの方だった。

「嘘だよ。明日も面接だし」
「はあ? なにそれ」
「悪い。ちょっとからかっただけだ……ていうか、お前も忙しいだろ。無理しなくていいよ」

サイタマとしては彼女に気を遣ったつもりだったのだが、それがトウカは気に食わなかったらしい。ますます声音を刺々しくして、電話越しに叱責を叩きつけてくる。

「私がいいって言ってるんだから、素直に受け取りなさいよ、このバカ」
「バカってお前……」
「私にはねえ! あんたより大事なことなんてないの!」

ぐさり、と、心臓に。
──深々と見えない刃が突き刺さった。

「……恥ずかしい台詞だな」
「うるさい! 心配してあげてんの!」

きゃんきゃんと子犬のように喚き散らすトウカに、サイタマは苦笑を漏らした。その吐息は湿り気を含んだ熱を帯びて震えている。

「ありがとな。元気出たよ」
「……今日はちゃんとごはん食べて、ゆっくり寝なよ」
「あ、晩メシ買ってくんの忘れた」
「もう! このバカ! ちゃんと食べないと体に障るって先週も言ったでしょーが!」
「そうだよ、俺はバカだ。大バカなんだよ」

独りでは食事を摂ることもできないし、
独りでは穏やかに眠れないし、
独りでは明日に希望さえ持てない。

あなたがここにいなければ。
なにひとつできない。

こんなクズみたいな俺を。
どうか君は、叱ってくれ。

「今度こっち来るときは、電話してくれ」

そうしたら。
こんな苦しいだけの、罰ゲームみたいな人生でも。
きっと、死ぬまで笑っていられると思うから。

「美味しいお蕎麦屋さん見つけたから、今度行こう」






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ex.人間 - syrup16g