murmur | ナノ





夜中に目を覚まして、まず感じたのは猛烈な喉の乾きだった。

中途半端な睡眠がもたらす倦怠感と、緩い頭痛──とうに一本残らず毛髪を失った頭部を痒くもないのに掻いて、サイタマは視線を隣に落とした。そこで布団を被って眠っているトウカの寝顔は、お世辞にも血色がいいとは言えない──憔悴して、悄然として、固く目を閉じている。まるでそういうふうに造られた人形のようだった。その首筋に散らばる痛々しい鬱血の痕が、責めるようにサイタマを睨んでいて──薄く開いた唇から漏れる、規則正しい寝息だけが救いだった。

「……………………」

きっかけは、些細なことだったように思う。なんでもない瑣末な口論だった──ちょっとトウカの帰りが遅くて、気が立ってしまって、野暮用が延びたのだと説明した彼女を疑うようなことを口走ってしまった。痛くもない腹を探られたトウカが怒るのも当然なのに、自分は余計それに神経を逆撫でされて、その結果が──これである。

弁明の仕様も、弁解の余地もない。
情状酌量など期待できない。
徹頭徹尾、満場一致で、サイタマにしか非はない。

幼稚な欲求に振り回されて、堪え性のない自分がトウカを苛んでいるということは、わかってはいる。重々に承知しているのだ──痛いくらいに。

それでも収まらない。トウカが笑っている姿を他の誰にも見せたくない。どんなトウカも自分だけが把握していたい。こんなにも心を乱されて狂わされているのに、自分の知らないトウカがいるのが許せない。占領して占拠して、全部まるごと独り占めして、優越感に浸りたい。

なんて──気色の悪い。
薄気味の悪い醜態。

こんな男に惚れられて、さぞかしトウカも迷惑だろう。
そんな自己嫌悪に酔っている事実にも嫌気が差す。いつからこんなつまらない男に成り下がってしまったのだろう。心底くだらない。愛想を尽かされても文句は言えまい──それでもトウカを手離すつもりなど一抹たりとてないというのだから、もうどうしようもないところまで墜ちている。

喉の乾きが一層サイタマの後悔を掻き立てる。ひどく億劫だったが、気づかない振りをして寝直すには些か水分を求める主張の声が喧しすぎた──サイタマは深い溜め息をひとつ、寝乱れたシャツの皺を適当に伸ばして、そっと布団を出ようとした。

裾がなにかに引っ掛かって、ぴん、と伸びる。
トウカの指が、弱々しく、けれど確かにサイタマのシャツを掴んでいた。

「……トウカ?」

起きているのか、いや今ので起こしてしまったのか、と一瞬サイタマは訝ったが、どうやらそうではないようだった。彼女の瞼は下りたままである。覚醒の兆しはない。しかしもごもごと彼女の唇が動いて、隙間が開いて、呻くように、そこから不明瞭な声が転がり落ちた。

「……せんせぇ……」

ただの寝言──なのだけれど。
それくらいは、わかっているのだけれど。
サイタマはその場に釘付けにされて動けなくなる。

「いっちゃやだ、せんせ……」
「──トウカ、」
「……すき」

くらり、と眩暈がした。目の前が真っ暗になる心地がして、意識ごとブラックアウトしそうになる。こんなひどい男に、こんなひどいことをされて、それでもいいと──言うのか。こいつは。この女は。

「……バカだよ、お前」

サイタマの表情が引き攣って、笑みのような形を作る──しかしそれは、笑顔というには硬質すぎた。ぎこちなく固まっていて、不格好で、堰を切って泣き出す予兆にも見える。

「大バカだよ」

吐き捨てたその言葉は──トウカではなく。
どこまでも狡くて汚い自分へ向けた罵倒だった。

「…………ごめんな」

ぼそりと呟いて、サイタマはトウカのブラウンに染められた髪を撫でた。柔らかく指のあいだを擽るこの温もりを、なによりも愛おしいと思う──他の誰にも、触れさせてやるものか。

「俺も好きだよ」

嘘偽りなく放ったその一言が、真っ黒い腕を音もなく伸ばして、トウカに絡みついて──そのまま雁字搦めにして、逃げ道を奪ってしまえばいい。嫌いになっても、いっそ憎くなっても、どこにも行けなくて、暗い森に迷って帰路を見失って、自分のところへ戻ってくるしかなくなればいい。そうしたら、ちゃんと優しく出迎えてやるのだ。彼女が安堵できるように、二度と離れていこうなんて思わないように、できるだけ穏やかに笑って、おかえり──と。

「大好きだ」

胸が躍る。心臓が高鳴る。己の内側で絶え間なく吠え立てられていた癒えない涸渇の咆哮が、一瞬、止んだ気がした。

草木も眠る丑三時、星のない空の帳はいまだ──
闇に沈み、明ける気配を見せてはいない。