murmur | ナノ





穏やかな昼下がり──駅前の喫茶店で、俺とトウカはだらだらと一服を決め込んでいた。

肩の辺りで切り揃えられた髪を垂らしながら、無心でアイスティーを細いストローから吸引しているトウカはとても小柄で、後ろ姿は中学生くらいに見えるかも知れないのだが、彼女はれっきとした成人で、ちなみにかわいいかわいい(便宜上)大学の後輩である。

「ねー、サイタマ先輩」
「あんだよ」
「どうすんですか?」
「なにが」
「まだ一個も決まってないってヤバくない?」

オブラートに包むという行為を知らんのか、この娘っ子は。

「うるせーな。好きで落ちてんじゃねーんだよ」
「それはわかってるけどさあ」

ちゅうちゅうとアイスティーを啜っているトウカの唇を、わけもなく見つめてしまう。きらきらと艶めいているのは世の女性が狂ったように塗りたくっているらしいリップグロスとやらの効果なのだろうか。なんか天ぷら食った直後みたいだな、と思った。

「あーあ、就職浪人かあ、先輩」
「まだそうと決まったわけじゃねーよ」
「でも濃厚ですよね?」
「ぐぬぬ……」

誰かこいつの歯に着せる衣を授けてやってくれ。
頭を抱えたくなる衝動を抑えて、俺はマンデリンのカップに口をつけた。苦い。格好つけずにオレンジジュースにしとけばよかった。

「いつも面接でダメなんでしたっけ」
「ダメとか言うなよ……」
「先輩、なんか変なこと言ってるんじゃないんですか?」
「知らねーよ。大体あんなもん正解ねーだろ。なに言ったら正しいんだよ。俺はもう一生分“御社”って言ったよ。夢に出るわ。これ以上どうしろっつーんだよ……くそ……俺はもうダメだ……」
「もー、しっかりしてくださいよ先輩!」

ゆったりとしたBGMが流れる店内に、トウカの叱責の声が飛ぶ。平日の午前中ということもあって店内は閑古鳥だったので、誰も気に留めていないのが幸いだった。

「わーってるよ。なんとかするって」
「無理しない程度に頑張ってください」
「……おう」

無理しない程度に──と。
普段ズバズバ物事を言うくせに、こうやってさりげなく気遣ってくれるところが──

かわいいな、と思ってしまう。

「いいとこ就職して、バリバリ仕事して、ガツガツ稼いで、でけー家を建てんだよ」
「そりゃ素晴らしいですね」
「犬も飼うぞ。柴犬。ちっこくてかわいいの」
「先輩、バリバリ仕事するんじゃなかったんですか? 誰が世話するんですか、その柴犬」
「お前」
「はぃい?」

トウカは俺の発言に目を丸くしている。
──かわいい。
それこそ柴犬みたいだ。
いや──サイズ的に豆柴といった方が近いだろうか。

「お前が世話して、んで、俺が帰ってきたらおいしい晩メシをだな」
「ちょっちょっちょっなんですかそれ」
「一緒に風呂も入って、一緒のベッドで寝ようぜ。ふっかふかの高い羽毛布団みたいなヤツ」
「なに言ってん、ですか先輩、ちょっと」
「なにって、俺の希望に溢れた将来設計だよ」

トウカは二の句が継げずに、金魚のように口をぱくぱくさせている。顔面が真っ赤なのも、また金魚みたいだ。豆柴になったり魚類になったり、忙しない表情筋をお持ちでいらっしゃる。見ていて飽きないので、俺としては大歓迎なのだけれど。

「ばっ、か、ですねえ、先輩」
「俺もそう思うよ。……まあ、考えといてくれ」
「か──考え……って、なにを」
「こんな俺のしょーもねえ妄想に付き合ってもいいかどうか、そのちっちぇー頭を振り絞って、決めてといてくれ」

俺はそれだけ言って、伝票を掴んで席を立った。まだコーヒーの苦味が口の中に残っていて、舌が痺れている。ちゃんと呂律が回るかどうか心配だったが──

「じゃあ、俺は先に行くわ。これからまた面接なんだよ」
「せ、せんぱ……私……えええ……」
「見とけよ。今日こそ俺は合格するからな。そんで」

どうやら噛まずに、殺し文句を告げることができたようだ。

「俺がずっと、お前のこと養ってやるんだ」

より赤みを増して、今度は林檎のように熟れたトウカの呆然とした視線に見送られ、俺は会計を済ませて喫茶店をあとにした。老若男女の行き交う大通りを歩きながら、今更になって恥ずかしさが込み上げてきたけれど、しかしもう後には退けない。言ってしまったのだ。ずっと伝えようと秘めていて、しかし口に出せず、喉につかえて悶々としていた塊がようやく取れた。

かつてないほど、気持ちが晴れ晴れしている。
本当に、今日はうまくいく気がした。全部スムーズに事が運んで、でっけー家は建てられなくても、豆柴は飼えなくても、彼女と一緒にいられるならそれでいいと思った。

それだけでいいと思った──のだけれど。

結果として、意気込んで挑んだその面接も、俺は落とされる羽目になる。しかしその帰りに、ひょんな事件に遭遇し、いろんなことが吹っ切れて、俺は就職活動を諦め、一転“ヒーローになる”という馬鹿げた目標に人生を捧げることになる。彼女は呆れるだろう。呆れ果てるだろう。もう会ってくれなくなるかも知れない。それは寂しかったけれど、まあ、仕方のないことだと割り切った。割り切ろうと頑張った。自分の不器用さに泣きそうになりながら頑張った。

それから数年が経過したのち、常識を超えた、他の追随を許さない圧倒的な強さを手に入れてしまい、退屈な人生を送ることになるなどという未来を、このときの俺はまだ知らない。
それは別の話である。

そしてそんな滑稽でコメディでコケティッシュな俺を、彼女が見捨てたりせず、相変わらずころころとくるくると表情を変えながら、ずっとついてきてくれたのだという史上稀に見るハッピーな展開も──

それもまた、別の話である。