murmur | ナノ





その写真に、わたしは見覚えがなかった。

だいぶ年季の入っていることが窺える、古びたモノクロ・フィルム。ところどころ縁が欠けてぼろぼろになっているが、そのなかで寄り添う正装した男女の温もりに満ち足りた微笑みは色褪せることなく輝きを放っているように見えた。ふたりとも年老いて、皺だらけの顔をしていたけれど、とても幸せそうだった。なにか祝い事の記念写真──といった趣きである。

「どうしたんだい、トウカ」
「おはようございます。博士」

いかにも今しがた起きました、といった様子で、ふらふらと博士が部屋に入ってきた。わたしはその写真を博士に手渡した。博士は眼鏡のリムに触れながら、それを受け取って、写っているふたりを見て──目が見開かれて大きくなって、それから細くなった。慈しんでいるみたいな、懐かしんでいるみたいな仕種だった。

「どこにあった?」
「このデスクの、引き出しの裏に挟まっていました」
「そうか。そんなところに──道理で見つからなかったわけだ」

博士はそう言って、わたしが指さしたデスクの表面を撫でた。木だけで組まれた、シンプルな造りの机──恐らく写真と同じくらい歳をとっていて、磨いても取れなくなった汚れも目につくけれど、まだ使えないほどではない。わたしは普段このデスクを使って、本を読んだり日記を書いたりする。わたしはまだ二十数年しか生きていないので、きっとわたしの前にもこの机を愛用していた誰かがいるのだろう。

「博士、お聞きしてもよろしいですか」
「なんだい」
「この写真に写っているのは、誰ですか?」

わたしの問いに、博士は少しだけ悲しそうな顔をした。
その理由はわからなかったけれど、ちくりと胸の奥が痛んだ。

「これは私だ──“若さ”を手に入れる前の」

言われてみれば。
面影があるような気もした。

博士が自らを改造して、改修して、改竄して、衰えることのない肉体へ進化を遂げているということはわたしも知っていた。わたしにも同じ“処理”をしてあるので、一定の年齢に達したら、それ以上の変化が起きることはないのだとも教えられていた。成長はすれど、老化はしない──ということらしかった。そういう難しいことは、わたしには理解できない。

「そうだったのですか」
「そして、隣の女性は──君だ」
「わたしですか?」
「そうだ」
「…………………………」
「驚いたかい?」

わたしはかろうじて頷くことができた。

「彼女は私の、ただひとりの理解者だった。理知的で、聡明で、他の誰よりも美しく、優れた女性だった……ずっと一緒にいたかった。しかし彼女は不治の病を抱えていた。私は彼女が生き永らえるためにあらゆる手を尽くしたが、少しずつ弱っていった……そして、とある冬の日、彼女は死んでしまった。とても寒い日だった。天使の羽のように、白い雪が降っていたのを、今でも覚えている」

まるで彼女を迎えに来たようだった──と。
博士は訥々と語った。

「そして私は、永遠の眠りに就いた彼女から細胞を採取して、その遺伝子情報をもとに、寸分たりとも彼女と違わぬ新たな生命を造り上げた。フラスコという子宮のなかで、培養液という羊水に包まれて、君は少しずつ育っていった。君の目が開いて、私をその瞳に映してくれたあの瞬間を、私は一生忘れはしないだろう」

窓から差し込む麗らかな午後の日差しが、フローリングの床に光を落としている。温かい春の陽気に包まれながら、わたしは博士をじっと見つめた。博士もわたしから目を逸らさない。

「今度こそ、私たちは幸せになれるよ」
「愛しておられたのですね」
「いや、違う。そうじゃない。今も“愛している”んだ。トウカ──君のことを」

博士の表情が柔らかくなった。世界平和の実現を信じて疑わない博愛主義者みたいな、穏やかで晴れやかで澱みのない、そんな笑みを浮かべた。

「君は綺麗になった」
「ありがとうございます」
「あの頃の君に、そっくりだよ」

博士が優しく言った。わたしは純粋に嬉しかった。わたしは博士を喜ばせるためだけに作られたホムンクルスだから、博士が笑っているという事実は、なによりもわたしにかけがえのない幸福感を与えた。

机とベッドと小さな衣装箪笥、それ以外になにもない簡素な狭い部屋で、わたしと博士はいま、間違いなくしあわせだった。ここには博士とわたしの他に誰もいないのだ、なにもいらないのだ、と思った。

「探し物も見つかったことだし、お茶にしよう。君が好きだったニルギリの茶葉を買ってあるんだ」

博士と台所へ向かった。テーブルに向かい合って座り、博士が淹れてくれたお茶を飲んだ。濃いオレンジ色の液体にミルクを注いで口に含むと、すっきりとしたいい香りが広がって心を洗ってくれるようだった。

それは初めて経験する味だった。
けれど、わたしはとてもおいしいと思った。そのことを博士に伝えると、博士は嬉しそうにまた笑った。わたしも同じ表情を作った。

窓の外から小鳥のさえずりが聞こえた。
その美しい音色に耳を傾けながらわたしは、かつてわたしが愛したこのひとと一緒に過ごすこの時間が、どうかずっと永遠に続きますようにと祈った。








(君には青を 冷たい花を)
(君には青を 舐め合う傷を)
(君には青を 孤独の意味を)

君には青を
生命の理由をあげるよ

ART-SCHOOL「メルト ダウン」



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