murmur | ナノ





彼がやってきたのは、ちょうど夕飯を済ませ、熱いシャワーを浴びて、さあテレビでも見てのんびりしようかと羽を伸ばしかけた頃合だった。

左腕がなくなっていた。肩のあたりから強引に引き千切られたことが窺える断面が剥き出しになっていた。そんな凄惨な状態においても血腥い気配が、スプラッタな様相がまったくないのは彼の体躯が機械によって構成されているためである。傷口──と称してよいものかどうかすら疑わしい箇所から小さな火花を散らしているだけで、彼は痛がる素振りすら見せていない。いつもと変わらない無表情で玄関口に立っていた。

「ジェ、ノスくん、ちょ、どうしたのそれ」
「怪人との戦闘中に……油断した。トーチカ技師を呼んでくれ」
「え、あ、うん、オーケイ。ちょっと待ってて……おとうさーん! おとうさーんっ!」

狼狽しながらも踵を返し、大声で叫びながらトウカは廊下の奥へと消えていった。ばたばたと騒がしい足音が遠ざかって、そして数分も経たずに戻ってきた。銀縁眼鏡をかけた四十代半ばほどの男性を連れてやってきたトウカが目にしたのは、三和土に頽れて倒れているジェノスの姿だった。トウカは悲鳴にも似た声色で彼の名を呼んだが、閉じられた瞼が微かに震えただけで、返事はなかった。



目を覚まして、視界に飛び込んできたのはグレーの天井だった。

打ちっ放しのコンクリートに囲まれた部屋だった。直方体の機器が都会のビル群のように無造作に立ち並んでいて、そのひとつから伸びる太いケーブルが、簡素なベッドへ横たわる自分の胸部へ繋がっている。元通りになっていた左腕が正常に動くことを確認して身体を起こそうとしたが、まだ意識がぼんやりと霞みがかっていてうまくいかなかった。

「あ、起きたんだ。気分はどう?」

声のした方を振り返ると、トウカがいた。くすんだ水色のTシャツに、黒いハーフパンツを履いている。完全に部屋着──というか、寝間着だった。眠そうに目をこすっている。

「……何時だ、今」
「二時半ちょっと回ったくらい」
「すまないな」
「え? なにが?」
「こんな夜中に転がりこんできて」
「いつものことじゃない。人命が懸かってたんだから、気にしないで」

そらとぼけて、トウカは部屋の隅に放置されていたスツールをよいしょとベッドの脇まで運んで腰かけた。

「技師は今どこに」
「寝てるよ。最近ごたごたが続いてて、寝不足みたいでさ。ジェノスくんの左腕を取りつけ直して、あとはバッテリー切れをどうにかするだけだから“充電器”に接続しておけば明日には動けるようになるって言ってた。なにかあったら起こせ、なにもなければ起こすな、ってさ」
「……申し訳ないことをしたな」
「気にしないでってば。これもおとうさんの仕事なんだから」

トウカが“おとうさん”と呼ぶトーチカ技師は、実のところ彼女とは血縁でもなんでもない。怪人の引き起こした大量殺戮に巻き込まれて孤児となったトウカを養子として引き取ったのだ。彼は有名大学で機械工学の講師を務めながら、その類稀なる凄腕でもって、各市に設置されているシェルターの設計に携わったり、ヒーロー協会と結託して対怪人用の兵器を開発したりしている。こうやって“敵にやられて身体の一部を欠損した正義のサイボーグの修繕”を行うのも、彼の数ある仕事のうちのひとつ──というわけだ。

「クセーノ博士にはもう連絡してあるって。明日にでも出向いて、精密なメンテナンスをしてもらうようにって」
「……承知した」
「それにしても、ほんと驚いたなあ。腕とか脚とか壊れたって来ることはあっても、あんなふうに倒れてるの見たことなかったから」

目を細めて、トウカがそう呟く。
蚊の鳴くような声で。

「死んじゃったのかと思った」
「……すまない」
「本当だよ。びっくりさせないでよ」

ジェノスの枕元へ身を乗り出して、トウカはこまねいた両腕をついた。もたれかかるようにしてその上に顎を乗せ、鼻先が触れ合いそうなほどの至近距離でジェノスを見つめる。

「大事なひとがいなくなるのは、もう嫌だから」
「そうだな」
「ジェノスくんにもわかるでしょう?」
「ああ」

嫌というほど──嫌になるほど。
愛する者を失う痛みは胸に刻みつけられている。

「どこにも行かないで」
「トウカ……」
「ジェノスくんは私を置いていかないでね」
「わかってる」
「……ごめんね。こんなこと」
「謝ることじゃない」
「うん……」
「お前は悪くないんだ」
「……ありがとう」

泣き笑いに震えた声色で、トウカは言った。そのままベッドに突っ伏してしまう。こんなところで寝ては風邪をひいてしまう──そうわかってはいても、口に出すことができなかった。彼女に離れていってほしくなかった。ここにいてほしかった。この夜が明けるまで。

言葉を吐く代わりに、トウカの髪に口づけた。身動きがうまく取れないのでぎこちない所作になってしまったが、それでも幾度となく唇で彼女の髪を啄むように撫でる。

「くすぐったいよ」
「そうか」
「ジェノスくん、猫みたい」

顔を上げてトウカは笑った。目元がほんの少しだけ赤い。

「嫌だったか?」
「ううん」
「……そうか」
「身体が元に戻ったら、もっとたくさんしてくれる?」
「お前が望むなら、いくらでも」

強引に首を伸ばして、トウカの首元、鎖骨の辺りに唇を落とした。音が立つほど吸いついて、その柔肌に赤い痕を残した。この傷がずっと消えずにいて、彼女の不安を取り払ってくれればいいと思った。

「おとうさんに見つかったら、ジェノスくん解体されちゃうよ、きっと」
「それは怖いな。近いうちにきちんと挨拶しよう」

そんなふうに──とりとめもない話をして。
ふたりの夜は滔々と更けていく。

互いの寂しさを、やさしく埋めるように。








(猫になりたい)
(君の腕の中)
(寂しい夜が終わるまでここにいたいよ)

(猫になりたい)
(言葉ははかない)

消えないようにキズつけてあげるよ

スピッツ「猫になりたい」



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