murmur | ナノ





心を鋼鉄のように保つのだ。

あらゆる状況の変化に耐えられるように硬く、なにものにも輪郭を崩されないように強く。するどく尖ったなにかでひっかかれても、野蛮なけだものに爪を立てられても、傷ひとつとしてつかない鉱物のように胸の奥をりりしく研ぎ清ます。私にはその必要があった。それはとてもむずかしいことだった。けれど私はなんとかこれまでを凌いできた。必死の思いで、しかしその労苦を表には出さないよう、水面下で激しく足をばたつかせながらすいすい進む水鳥のようにこらえてきた。

彼の隣にいるためには、それくらいのことをしなければならなかった。彼の立場は特殊だった。彼はしばしば先輩とのつきあいや、仕事上のあれやこれやで、さまざまのいかがわしい集会とか、夜しか営業していないふしだらな店に連れていかれた。面倒くさい、本当は行きたくなどない、と彼はことあるごとに私に零していたが、彼も男だから、若い女の柔らかい肌のみずみずしさだのたわわなからだの膨らみだのには悪い気はしていないはずだ。それはべつにいい。生理現象だ。動物的本能だ。そんなものは彼の人間性が乏しい理由にはなりえない。

心を鋼鉄のように保つのだ。

わがままを言いそうになる唇を噛みしめ、炎に焙られるような寂寥を押し殺し、彼を愛するための鎧を着るのだ。世界でいちばん丈夫で、そして重くて窮屈な、はりぼてみたいなアダマンタイトの鎧を。

空を仰ぐと、ゆるやかに陽が暮れかかって、朱のカーテンを広げていた。帰路につく人々の雑踏で駅前の大通りは彩られ、大衆の賑やかさがどこか哀愁を含みながらビルの隙間を泳いでいた。
約束の時間を五分ほど過ぎている。
手持ち無沙汰に携帯を確認した。彼からの連絡はない。さびしさにアダマンタイトで蓋をして、私は静かに目を閉じた。耳にかけたヘッドフォンが激しいギターリフを鼓膜に叩きこんでくるが、それさえどこか遠い世界のものみたいに感じた。

早く来ないかな、と浅ましく期待する。アダマンタイトに罅が入る、ぴきり、という音が聞こえた気がした。自分の内側に渦巻く、ありとあらゆる醜い感情が鎧を打ちつける。嫉妬、寂寞、退屈、色情、苛立ち、顕示欲、独占欲。どす黒いそれらが群れを成して鈍器を振り上げて、閉じ込める殻を怖そうと暴れていた。

「…………やめてよ……」

思わずひとりごちた声は我ながら驚くほど細く切実だった。そんなことをしたら割れてしまうじゃないか。粉々になってしまうじゃないか。勘弁してくれないか。お願いだから。

いくらダイヤモンドの表面が硬く傷つかなかろうとも、金槌の前には脆くも砕け散ってしまうのだ。
もう二度と元には戻らないことをいやでも悟らされるほど、原形を留めない、ただのがらくたになりはてる。
そんなことに、なってしまったら。
きっともう彼の隣にはいられなくなる。
私という人間のくだらないアイデンティティはいともたやすく死んでしまうだろう。

薄く目を開いて、時刻をしらべた。かれこれ十五分は待ちぼうけを食らっている。電話も、メールさえ届いていない。ぴきり、ぴきり、嫌な音が脳裡に反響する。

「赤崎くん……」

呼んでも、返事はない。行き交うひとびとの、誰ひとりさえ振り返らない。ぼんやりした痛みが心臓を締め上げる。ぴきり。ぴきり。ぴきり。ぴきり。ぴきり。
しらずしらず潤む目を戒めて、深呼吸をひとつ。

心を……。
心を、鋼鉄のように保つのだ。





アダマンタイト