murmur | ナノ




──豪邸である。

人里離れた地に聳える山岳をごっそり抉り取って、そこにひっそりと建てられた豪邸──というよりは、場所が場所だけに、いっそ要塞に近い。貴族が住まう宮殿のように瀟洒で絢爛な外装は、本来の役目を隠すためのカモフラージュでしかなかった。所有者の見栄と虚栄もあるのだろうが、登山客どころかプロの登山家すら近寄らないような樹海の秘境でそんなプライドを振りかざしたところで意味を成しているとは言い難かった。

そんな摩訶不思議な巨大建造物の──その中で。
今まさに、大騒動が巻き起こっていた。

「第一防衛チーム“コーネリア”突破されました!」
「お、同じく──“アクアス”および“カタリナ”も壊滅!」
「くそっ! “マクベス”はどうした!」
「だ……駄目ですッ! 応答がありません!」

中世の城を思わせる煌びやかな内装にはまったく似つかわしくない、黒スーツに色の濃いサングラスを着用した屈強な男たちが集まって固まって、なにやら阿鼻叫喚している。ただごとでないのは火を見るよりも明らかだった。広くて長い廊下の真ん中で、各々が無線機を片手に、次々と飛び込んでくる仲間たちからの情報に耳を傾けている。

「“ソーラ”と“ゾネス”もやられたようです……」
「なんだと!? “ゾネス”まで!? しかしあちらには“タイタニア”も向かっていたはずだ! あいつらはどうした!」
「通信が途絶えています……恐らく……」
「ば──化け物か! あの男──たった一人で──」

誰もが恐慌に表情を歪めていた。そのうちの一人が通信機から弾かれたように顔を上げて、全員に聞こえるように大声を張り上げた。

「た──隊長! ヤツが大広間まで到達したとの報告が! 我々“フィチナ”で片をつけろとのことで──」
「……やるしかないな。これ以上お嬢様の前で、醜態を晒すわけにはいかん」
「で、できるのでしょうか……? 我々の力だけで……」
「できるかどうかは関係ない。やるしかないんだ」

隊長と呼ばれた男が、懐から拳銃を抜いた。大型の獣の狩猟に使用されることもある、破壊的な威力を誇る大口径リヴォルバーのスミス・アンド・ウェッソンを両手に構え、男は自ら先陣を切って目標のもとへ向かって走り出した。部下たちも統率の取れた隙のない隊列を組んでついていく。

神殿のような設えの太い柱が等間隔に並び、静謐な雰囲気さえ醸し出している、ダンスホールのような遮蔽物のないその空間──大広間に、果たして“そいつ”は悠然と佇んでいた。

直刃の日本刀を逆手に持ち、闇色の忍者装束を身に纏い、同じ色の髪を艶めかせながら。
現れた男たちを視界に捉えて──獰猛に口角を吊り上げた。



同時刻。

ロココ調のアンティークな調度類に囲まれたプライベイト・ルームで、少女がひとり椅子に腰かけ物憂げに窓の外を眺めていた。育ちのよさそうなドレス姿で、窓際に置かれた木製のデスクに頬杖をついて、足をぷらぷらと揺らしながら、晴れ渡った青い空と、鬱蒼と生い茂る木々の群れをぼんやり見つめている。窓枠に切り取られた美しい自然の風景は、まるで絵画のようでもあった。

デスクの上には触れただけで割れてしまいそうな薄さのソーサーに、これまた同じような仕様のカップが載っていた。しかし少女はそれにまったく手をつけていないらしく、中身はすっかり冷めてしまっていた。香りが自慢の高級ダージリンも、こうなってしまっては形無しだ。いっそ物悲しさすら感じさせる。

「…………はあ……」

少女が思いつめたように溜息を吐き出した。どうしてこんなことになってしまったのだろう──という後悔がありありと滲んでいて、しかしすべてを諦めきって受け入れているふうでもあって、なにはともあれ重苦しい嘆息だった。

そこへ飛び込んできたのは、転がり込んできたのは、ダークカラーのスーツにサングラスをかけた男だった。仕立てのよさそうな正装は見るも無残に乱れていて、あちこち破れていて、ところどころ焦げていた。

「お──お嬢様! 駄目です! 我々では──ヤツを止めることができません! 現在チーム“フィチナ”がなんとか足止めしています! 今のうちに早くお逃げください!」
「そう……あなたたちでも無理だったのね」

切羽詰まった様子の男とは裏腹に、少女はいたって冷静である。
いや、冷静というよりは──ほとほと疲れ果ててしまって、もうリアクションを返すだけの気力もないような態度だった。

「あなたたち──裏世界で暗躍する傭兵集団“ライラット”が総力を挙げても敵わないのね、あの男には……」
「あの……お嬢様……?」
「仕方がありません。わたくしが出ましょう」
「! い──いけませんッ! ヤツの狙いはお嬢様なのです! どうかお逃げください!」
「あの男の狙いがわたくしだからこそ出るのですよ。そうすれば、もう無益な戦いは……無駄な犠牲が出ることは避けられましょう」

毅然と立ち上がり、ドレスの皺を直しながら、少女は淡々と言った。毛足の長い絨毯に這いつくばって歯噛みしている男を哀れむような眼差しで一瞥して、観音開きの豪奢な扉を睨んだ。

「それに──もう間に合わないようですし」

きいっ、と。
少女の視線の先──扉が静かに開いた。

そこに立っていたのは、直刃の日本刀を逆手に持ち、闇色の忍者装束を身に纏い、同じ色の髪を艶めかせる痩躯の男だった。全体的に線の細い風体で、女性だといわれればそう取れなくもない。とても限界まで鍛え抜かれた肉体と戦闘能力を持つ傭兵集団をいともあっさり叩きのめしてしまえるような怪物には見えなかった。

しかしその彼の恐ろしさは──絶対的な強さは、負傷して床に伏しているチーム“タイタニア”のリーダーである黒スーツが顔中に脂汗を滲ませていることから容易に窺える。

「やっと会えたな、トウカ」
「できればお会いしたくありませんでした。ソニックさん」

感慨深げなソニックとは相反して、トウカの口調はどこまでも平坦である。

「俺はずっとお前に会いたかった」
「そうですか」
「ああ──大事な大事な“ターゲット”だからな」

ソニックがトウカへ一歩を踏み出したそのとき、黒スーツが素早く体を起こした。全身を襲う痛みに歯を食いしばりながらも驚異的な速度で懐からコルク・ガバメントを抜いて撃とうとして──ソニックの鋭い蹴りが彼の後頭部を正確に捉えるのはさらにそれより数段も迅かった。

その筋の誰もがその名を聞けば震え上がる最強の傭兵集団の、そのチームのひとつでリーダーとして責務を全うしていた男は、今度こそ完璧に意識を失った。

「……邪魔者はいなくなったな」
「そうですね」
「もうお前を守る者はいない」
「……そうですね」

ソニックが機嫌よさげな足取りで室内に入ってきて、トウカとのあいだに横たわる距離はどんどん短くなっていく。手を差し出せば届きそうな位置までやってきて、ソニックは足を止めた。トウカは彼から目を逸らさず、だらりと垂らした両手を体の前に重ねて立っている。

「今度こそ、お前を逃がしはしない」

凄絶な笑みを浮かべながら。
ソニックはトウカへ右手をゆっくり伸ばして。



──ぽんっ!



と、まるで手品のように、その掌の中に小さな花束が現れた。

「迎えに来てやったぞ! トウカ!」
「………………………………」
「こんな山奥に閉じ込められて、さぞかし窮屈だっただろう。しかしもう大丈夫だ。俺がこの趣味の悪い牢獄から出してやるからな」
「………………………………」
「これはほんの気持ちだ。受け取ってくれ」

色とりどりの薔薇が薄いピンクの耐水紙に包まれているそのかわいらしい花束を、ソニックはトウカへ強引に押しつけた。無理矢理に受け取らされたそれにトウカは目を落として、それからソニックへ視線を戻した。彼は意気揚々として、欣喜雀躍として、トウカを熱の篭った眼差しで見つめている。

「お前の父親は本当に器の小さい男だ。お前が俺に奪われるのを恐れて、隠してしまったのだからな。こんな山奥にわざわざ豪邸を建てて、あんな傭兵集団まで雇って……ご苦労なことだ」
「お怪我はないようですね」
「当然だ。あの程度、俺の敵ではない」
「そうですか」
「話はここを出てからゆっくりするとしよう。行くぞ」
「……お気持ちは嬉しいのですが」

トウカは長い睫毛を伏せて、心痛の垣間見える声で言った。

「わたくしは、あなたについていくことはできません」
「なんだ? 父親からの報復が怖いのか? まあ確かにお前の父親は資産家という顔の裏でマフィアを牛耳っている大悪人ではあるが──たとえあの男が総力を挙げて俺たちを追ってきたとしても、俺なら返り討ちにできる。俺ならお前を守ることができる」
「……そうですね、あなたなら……それくらいのことは簡単でしょう」
「わかっているのなら、早く来い。新手が到着する前にここを出るんだ」
「しかしですね……」
「ぐずぐずしている暇はないぞ。大丈夫だ。俺がお前を自由の身にしてやる。二年前にお前のボディーガードを依頼されて、そしてお前と出逢いを果たした──あれは運命だったんだ。その点だけは父親に感謝しないとな」

ソニックはとにかく上機嫌だった。
なにがそうも楽しいのかと疑問に感じてしまうほど。

「俺は依頼を必ず完遂する。お前を守るという自分の仕事を果たしてみせる」
「…………はあ」
「だからもう怯えることはない。怖がることはない。誰の目も届かないところで、ともに暮らそう。そのために俺はここまで来たんだ。お前を愛している」

ソニックが謳う、まるで映画のワンシーンのような睦言。
それを聞くのは実際のところ初めてではなかった。二年前から繰り返し囁かれていた言葉だった。もう何度目になるのかもわからない。両手を指折りカウントしても足りなくなったところで、トウカは数えるのをやめていた。

どれだけトウカと引き離されても、その度ソニックは彼女のもとへ現れた。
どこからともなく嗅ぎつけて──探り当てて。
裏社会の重鎮の令嬢である彼女の手を取り外へ連れ出そうとした。

そんな彼に──トウカは微笑んでみせた。
それは天使のように清らかで、柔らかく、美しい表情だった。

「ソニックさん。あなたは──わたくしを愛して、一緒にいたくて、それでこのような辺鄙な山中にまでおいでくださったのですよね」
「そうだ。何度も何度も言ってきただろう?」
「何度も何度も……ええ、その通りですね」

気が遠くなるほど、何度も何度も。
ソニックはトウカのもとへやってきて、阻止せんとする猛者たちをものともせず、まっしぐらに彼女へ盲進してきた。

そんなソニックに──トウカは。
この世のものとは思えない、神々しくすらある微笑みを浮かべたまま。

目にも留まらぬ速さで振り上げた拳を。
恍惚としている彼の顔面に容赦なく叩き込んだ。



「しッッッつこいんだよ──このストーカー野郎ッ!!」



綺麗に顎を打ち抜いた一撃によって、ソニックは吹っ飛ばされた。
この光景も──もう、何度目になるかわからない。

一発で伸びてしまったソニックを──熱烈な愛でもって自分をどこまでもどこまでも追いかけ回してくる傍迷惑な忍者野郎を目の前に、今度はどうやって身を隠そうか……とトウカは痛む頭を抱え、また溜息をつくのだった。








(もう迷ってなんかいないで)
(扉を蹴り飛ばして)
(二人の距離はもう臨界点)

(英雄になりきって颯爽と手を伸ばした)
(君からの答えは)

瞬間で強烈な掌底!

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