murmur | ナノ


「Like a Bubble」わか様よりいただきました。
大感謝!ありがとうございます!





「スイマセン、この後ヒマですかね?」
 帰宅しようとカバンを手に出口まで向かおうとした時だった。後ろから声をかけられて振り向くと、最近よく見る従業員の、金髪の男が立っていた。ジェノスと違い黒髪を金に染めたのだろう。根元の方が黒ずんでいてあまり綺麗な色じゃない。食品業であの髪の毛ってどうなんですかと前に同僚のおばちゃんに尋ねたのだが、彼はこのスーパーの中にある軽食コーナーの従業員らしく注意されないらしい。
「えっ……私ですか?」
「他に誰がいるんですか」
 苦笑したようだが、その笑いが小馬鹿にしたような雰囲気をまとっていて、トウカは少し顔をしかめた。この男のいい噂をトウカは聞いたことがない。

 というのも、この男。学生アルバイトである女の子の何人かに手を出したというのだ。それが理由で辞めたアルバイトの女の子も実際にいる。どうにかできないかと数人のおばちゃんと共に店長へ話を持ちかけたのだが、業務以外のことを注意する権限はない上に、特に男性の人手が足りておらず、簡単にクビにできないのだと至極もっともな返事をされただけだった。
「時間があればどこかに一緒に食べに行きません?」
 へらへらと笑う男に曖昧な営業スマイルで返し、トウカは胸中で唾でも吐いてやりたい気分だった。まさか自分が標的になるなど思ってもみなかったが、男性従業員からの話によれば、この世の女全てモノにできる、なんて豪語しているらしいのでどんな女性も守備範囲なのかもしれない。
「すいませんけど、帰ってから忙しいので」
「じゃあ仕事の前とか、あっ、休みの日でも別にいいですけど」
 こちらは宜しくないのでどうにかして振り切りたい。胸糞の悪さを抱きながら早足で警備員の前を通り過ぎ、バックヤードのドアを開いた。
 カラン、とゴミ箱の底と空き缶がぶつかった音がして振り向くと、見覚えのある空き缶と、美しい金色の髪が自販機のすぐ横に見えた。なんていいタイミングで来てくれたのだろう! トウカは咄嗟の思い付きをそのまま口にした。

「すいません、年下の彼氏が待ってるので!」
 後ろの男の返事を聞かず、自分を待っていてくれた綺麗な金髪の持ち主、ジェノスの元へとトウカは急いで駆け出した。今日はトウカの部屋に、余ったキャベツを貰いに来るとメールで約束していた。
「ごめんね、ジェノス君。待った?」
 わざとらしく言いながら、少し目を見開いたジェノスの隣まで辿り着くとそのまま鉄で出来た二の腕をひっつかみ、足早に歩き出す。なりふり構っていられなかった。とにかく後ろからやってくる不愉快から逃げ出したい。
「…………ごめんジェノス君、勝手に彼氏とか言って。しばらくそういう事にして誤魔化していいかな」
 しつこいらしいの、あの人。ヒソヒソ声でジェノスの耳元に顔を寄せて伝えると、ジェノスは嫌がることなく「俺で良ければ」と頷いてくれた。【大先生】の立場が効いたらしい。サイタマの不用意な発言とジェノスの律儀さにトウカは心から感謝した。

「けど、仕事が終わったら私からメールするって約束だったよね? 待たせちゃったと思うんだけど……」
「トウカさんが心配で、20分前から近くの公園で待機していました。今日もこの一帯で怪人が出現したばかりでしたし、トウカさんに何かあってはいけないと思いましたので」
 薄暗くなった帰り道を二人並んで徒歩で歩く。歩道と車道が完璧にガードレールによって遮断され轢かれる心配はないというのに、ジェノスは車道側にわざわざ移動し、トウカを隠すように歩く。部活の後輩が必死に気を回しているような様子で、なんだか少しおかしかった。
「前にも言ったけど、私にそこまで気を使う必要ないよ? 二人みたいにヒーローをやってて強いわけじゃないんだし、ジェノス君に慕われるようなことも特にしてないし」
「そんな事はありません。トウカさんには俺が慕うべき理由がたくさんあります」
「お世辞がうまいんだから。あ、ジェノス君こっち。ここ突っ切ったほうが早いから」
 真面目に返すジェノスに苦笑しながら、トウカは左に曲がり公園へと入る。遅れてついてきたジェノスが少しだけ眉根を動かした。
「トウカさん、いつもこの経路を使っているのですか?」
「そうだけど」
「今の時間ならともかく、遅番の終業時間のことを考えるとここは危険です。暴漢に襲われたらどうするんですか」
「大丈夫だって、今までここにそんなの出たことないんだから」
「……いえ。さっきの男が俺達の後方100メートル内に付きまとっています」
 えっ、と声を上げてジェノスの整った顔を見ると、彼は視線で後ろを示した。全く人の気配などしないのだけれど、よくよく見るとジェノスの瞳の中で何かの表示や文字が消えたり現れたりしている。さすがサイボーグ、便利だなあと漠然と感じた。
「もしかして、私たちのこと疑ってる、とか」
「そのようですね。独り言の多い男のようだ、トウカさんの咄嗟の嘘を怪しむ言葉を何度も呟いています」
 人の気配も見えず、ましてや声なんかも街の喧騒に紛れて聞こえない。トウカはジェノスが小さな音声を聞き取ったことよりも、そこに紛れて何かぶつぶつ言っているであろう男のほうが気がかりになった。
「まいったなあ……ごめんジェノス君、手つないでいい?」
「恋人同士だと偽装し、諦めさせて追い払おうという算段ですね。構いません」
 差し出した機械の手をトウカは握る。傍から見て恋人同士に本当に見えるのだろうか、と考えてみて急に照れくさくなった。
「ありがとう。まあ、抱き合ってるくらいのインパクトはあったほうがいいんだろうけどさすがにそんなのジェノス君に頼むわけにもいかないしねえ」
「トウカさんがお望みなら」
「はい?」
 するりと温度のない手がトウカの手からすり抜けると、背中へと回る。え、ちょっと、本気で……という動揺が言葉になる頃には固い胸板が自分の肩に当たり、金色の髪が自分の顔のすぐ横まで来ていた。

 どうするのこれ。え、どうしよう。

 機械の体に包まれて、トウカはただひたすら混乱するしかなかった。身体がカチカチに固まり、まとまらない思考がぐるぐる回っているとどこからか甘い香りがして、その香りが気持ちを落ち着けた。……なんだろう。機械の身体のジェノスに体臭なんてないだろうし香水をつけるタイプにも思えない。首を傾げた瞬間、大きな音と共に顔の横の黄金色と身体中の冷たい感触が消え失せた。

 今度は何があったのかと戸惑っていると、さっきまでジェノスが立っていた地面は大きくひび割れ、100メートルほど離れた場所で誰かと誰かが話しているのが見える。……さっきの男と、ジェノスだった。
「二度とトウカさんに近づくな」
 トウカには放ったこともないような、あまりにも冷たくて機械的な声だった。一体どうしたというのか。男は驚いたのか尻餅をつき、ジェノスは手の平に空いた穴から赤色の光を放っている。
「いいか。今呟いたその不愉快な言葉をトウカさんへ向けるか、或いは実践してみろ。お前をこの手で焼き尽くし、塵も残さずこの世から消し去ってやる」
 言葉の節々には怒気まで垣間見えた。ジェノスがこんなに感情を露にできる性格だったとは、と思いながら逃げていく男の背中を見守っていると、何事もなかったような顔でジェノスが振り向いた。
「すみませんトウカさん。あの男があまりに不愉快な発言をしたので、自制できませんでした」
「なに言ったのあの人」
「とてもトウカさんにお話できる内容ではありません」
 下ネタでも言ったのかなあとぼんやり思っていると、行きましょうと促され再び歩き出す。それにしても【大先生】の悪口を言われただけでこんなに怒るなんて。本当に真面目なんだなあとトウカは改めて感じた。
「でも、ありがとうね、助かっちゃった。怒ると怖い【彼氏】がいるならもうあの人近寄ってこないだろうし」
「……トウカさんがお望みなら本当にお付き合いしましょうか?」
「いいよ、ジェノス君。私が【大先生】だからって気を遣って、なんでも言う事聞く必要ないんだからね?」
 今の出来事で分かった、ジェノスは本当に真面目なんだ。これをしろと命令されたらきっと従うし、先生を馬鹿にされたら怒る。きっとメロンパン買ってこいなんて言ったら喜んで応じてくれるような後輩みたいな。きっとそんな感覚なのだとトウカは納得する。全部、トウカが大先生であるからこそ。ただそれだけなのだ。
「そんな理由で付き合うなんて、駄目だからね」

 横を歩いていたジェノスがピタリと足を止める。立ち止まったジェノスを訝しんでトウカが振り向くと、ジェノスはまるでお菓子を買ってもらえなかった子供のような……そんな不服そうな雰囲気を少しだけ滲ませて。トウカのことを見ていた。
「…………本当に、それが理由だと思っているんですか」
「え?」
「それだけの理由で、俺が他人と付き合うとでも?」
 金色の髪の奥で、同じ色の瞳が揺れている。まっすぐこちらを見ていた。
「俺がトウカさんに好意を抱いていないとでも言うのですか?」
 そうだとしか思えないのだけれど。トウカは首を傾げる。だって、メールや電話をしていても内容はずっとセール情報などについてで、それ以外は社交辞令程度のコメントしか…………

「……まさかとは思うけど、あれ社交辞令じゃなかったとか?」
「俺がなぜトウカさんに社交辞令を言う必要があるんですか」
 確かにメールでよく素敵な女性ですね程度の事は書かれていたし、最近特に増えていた気もする。しかし書かれていたには書かれていたけれどそんなもの真に受けていなかった。完璧にスルーしていたし、他にどんな事を言われたり書かれていたのか実はほとんど覚えていない。
 あの短いコメントは、まさか不器用にひねり出されたアピールの言葉だとでもいうのか。
「え、だってそんな風に言われるようなこと私やった? 好かれるようなとこ私ある?」
「ご希望なら一から全て説明しましょうか」
「ゴメンやっぱいい」
 ジェノスとの接点なんて、サイタマに伝達するためのセール情報のやり取りと、後は時々スーパーにやって来たジェノスにおまけしてあげるだとか希薄なものだったと思うんだけど。最近の10代ってわかんないなあと前に向き直り歩き始めると、後ろから手を掴まれた。
「それで、トウカさん。どうなんでしょうか」
「何が?」
「お付き合いの件です」
 街灯に頭をぶつけたかのような衝撃が頭を駆け抜けた。そうか、さっきの言葉が嘘でないなら当然一番初めの彼氏云々だって、本気の大真面目だったということになる。
 そりゃ、こんなに甲斐性があって見た目も良くて、年下の男の子なんて悪い気がするはずない。いや、だけど。思考が追いつかない。いきなりすぎる。今すぐ自分の部屋に逃げ込みたかったけれどよく考えたらジェノスの行き先もトウカの部屋だ。逃げ場がない。

 突然のことで混乱し、口をパクパクさせていると。風が吹いてさっきの甘い匂いがまたどこかから漂ってきた。ふいにそれが何の香りだったのか思い出す。これはたぶん、ずっと前にジェノスに渡したあの缶の中身。ゴールドなんとかという栄養ドリンクだったはず。
 そういえばジェノスは出入り口付近の自販機の前で待ってくれていた。そしてトウカが話しかける直前に捨てていた見覚えのあるパッケージの缶も、その栄養ドリンクではなかったか? 役に立たない、と最初に言っていたくせに。彼は自分でわざわざ買って、それを手にしていたというのか。

 風で金色の髪が揺れている。淀みがない綺麗な黄金色。同じ色の瞳はまっすぐにトウカを見てその姿を映している。
 憎らしいくらい、本当に美しいその色を見ながら。トウカは返事をすべくゆっくりと唇を動かした。