murmur | ナノ





茹だるような暑さが、室内に充満している。
私は全身の汗腺がフル稼働しているのを感じながら、少しでも涼を取ろうとフローリングの床に這いつくばっていた。ひんやりと心地よい冷たさが肌に染みて、それがなんともたまらない。忌まわしき夏という地獄の季節への、ささやかな抵抗。

「……なにをしているんだ」

頭上から、呆れと怒りの混じった声が降ってきた。のそりとそちらへ視線を遣ると、なんとも言い難い複雑そうな顔をしたジェノスくんが私を覗きこむようにして立っていた。

「あー、おかえりんしゃい」
「ただいま。……それで、なにをしているんだ、お前は」
「全力で涼んでる」
「……効果はあるのか?」
「うんにゃ」

ジェノスくんはますます険しい表情になって、私の横っ腹を軽く蹴っ飛ばした。起きろということらしい。まったく厳しいサイボーグである。私は渋々フローリングに別れを告げて上半身を持ち上げ、乱れた髪を手櫛で梳いて整えた。

「それで? 今日はどうだったの。災害レベルが途中で狼から虎に上がったって聞いたけど」
「大したことはない。たまたま近くにいたから俺が呼ばれただけで、A級でも問題なく対処できるレベルのトラブルだった」
「さいですか。じゃあランクは変わらないね」
「多分な」
「十位以内は遠いですなあ」
「いつかは必ず食い込んでみせる。それが先生からの課題だからな」
「今日も先生のところ、行くんでしょ?」
「ああ」
「じゃあさ、また先生うちに呼ぼうよ。また食事会しようよ。前に挨拶してから、けっこう経ってるし。うちのジェノスがいつもお世話になってます、ってお礼しないと」

先生というのは、ジェノスくんが師と仰ぎ慕っているヒーロー「ハゲマント」ことサイタマさんのことである。名は体を表すというけれど、それにしたって表しすぎだ。憚らなさすぎだ。名乗りづらすぎる。もう少しオブラートに包めなかったのか。婉曲した表現がこの国では美徳とされるんじゃなかったのか。

「わかった。先生にスケジュールの確認を取る」
「よろしく伝えといてちょんまげ」

ちなみにジェノスくんは、サイタマ先生のお宅に居候していた時期がある。なんでもいきなり押しかけて自分もここに住まわせろと要求したらしい。金にモノを言わせて買収したらしい。サイタマ先生の棲家はゴースト・タウンのお世辞にも広いとはいえないマンションの一室で、こんなところに男二人が暮らすのは窮屈だろうと私は思い、比較的サイタマ宅から近い場所にあるこのアパートを借りてジェノスくんを引き取ったのだ。要するに、いらない世話を焼いたのである。サイタマ先生にはいたく感謝されたけれど、ジェノスくんは変わらず毎日のように彼の家を訪れて入り浸っているので、正直あまり変化はない。

……ちょっと寂しいけれど。
まあ、でも、そういうところに惚れたのだ。
彼のその、真っすぐすぎるほどの純粋さに。

「あー、それにしてもあっちい……」

再び床との納涼ランデブーに興じはじめた私を、ジェノスくんがじろりと睨む。彼は私がだらしない行動に出るといつもこうやって怒るのだ。ちょっと面白い。

「やめろ。みっともない」
「誰も見てないんだからいいじゃん」
「俺が見ているだろう」
「ジェノスくんは私のもっとはしたない姿も知ってるでしょ」

……自分で言って恥ずかしくなった。ごろんと俯せになって、頬の紅潮が彼から見えないようにした。

「なんだ、誘ってるのか? こんな明るいうちから」
「………………ばか」
「馬鹿とはなんだ、馬鹿とは」

ジェノスくんは嘆息して、オットセイのごとくのたうつ私の傍らに屈み込んで掌をかざした。あまりにも醜くて見るに堪えないので焼却されるのかと思ったが、そこから放出されたのは冷気だった。死ぬほど求めていた涼やかな風が、肌を撫でて通りすぎていく。

「お……うおおおおお!?」
「これで満足か」
「すげええええええええええなにこれ」

私は感動に打ち震えながら寝返りを打って仰向けになった。恍惚に目を閉じる。顔面に吹きつける風がなんかもうヤバい。天国だ。ヘヴンモード突入だ。楽園はここにあったのだ。

「はあ……しあわせ……」
「……もういいか?」
「もっとして」
「先生のところへ行かなければならないのだが」
「やだー!」
「お前というやつは……」
「もうちょっと、こう、激しくできる?」

要求がエスカレートしてくのを抑制できない。抑圧できない。人間というものはこうも簡単に堕落してしまえる生き物なのか。こんな欠陥だらけの種が霊長などと笑わせる。偉そうにふんぞりかえって食物連鎖の頂点に君臨していながら、その実態はだらだらと楽をしたいだけの哺乳類だ。ナマケモノと同列だ。いや、ナマケモノは常に己の腕で木にぶら下がり続けるという反重力行為を強いられている。人間が懸垂状態のまま生きていけるか? 答えはNOだ。不可能だ。たとえSASUKEのオールクリアを達成した猛者だって無理だろう。ということはつまり人類とはナマケモノ以下の



──ちゅっ、



「……………………」

一体なんだ今のリップ音は。しかもなにか柔らかいものが唇に触れたような気がしたぞ。柔らかくて、人肌ほどの熱を帯びていて、そして少し濡れているような、そんなものが唇に確かに触れたぞ。私はぎこちなく瞼を開いた。したり顔でこちらを見ているジェノスくんと目が合った。

「そんな無防備に寝ているからだ」
「────〜〜〜ッ!!」

ぼんっ、と音がしそうな勢いで、私の月並みなフェイスが一瞬で耳まで赤くなってしまったのが、鏡を見るまでもなくわかった。

「“もっとして”だの“やだぁ……”だの“激しくできる?”だの、昼間から節操のない女だな」
「ち……ちがっ……おま……ええええええええ」

言葉尻をとって揶揄するジェノスくんだったけれど、ちょっと待て、二言目おかしくないか。そんな喘いでないぞ。そんな喘いでなかった……はずだぞ。

「もう気は済んだだろう? 俺は行く。買い出し頼んだぞ」

さっさと立ち上がって、ジェノスくんは振り返りもせず出て行ってしまった。私はいまだ狂ったように早鐘を打っている心臓が口からボローンと出てこないよう左胸を押さえながら、自分のものではない温度の残る唇を強く噛んだ。

なんということだ。
せっかく──涼しかったのに。

暑くて、熱くて、どうしようもない!