murmur | ナノ


相互リンク記念! わか様へ捧げます。
連載「ネガティヴ・エッジ・トリガ」番外編です。ネタバレを含みます。本編をご一読してからの閲覧をお勧めします。








「本当にやるのね」
「……ああ」
「今からでも考え直したら?」

ほとんど灯りのない、暗がりのその部屋で、ふたつの人影が語り合っていた。

「それは無理だ。もう後戻りはできない」
「相変わらず強情なのね」

その影のひとつ、黒髪の女性が皮肉っぽく微笑んでみせた。白いストライプ柄が入ったグレー地のスーツに身を包んでいて、背筋は凛と正しく、キャリアウーマンの例として辞書に載っても差し支えのない風格を持っている。

「ところで──頼んでおいた“あれ”の用意は」
「心配ご無用。準備万端よ」
「見せてもらえるか」

もう片方の、背の高い影──テオドールの申し出に、女性は頷いた。傍らのキャビネットに置いていた十センチ四方ほどの小さい強化アクリル・ケースを手に取って、彼に差し出した。
透明の板越しに中身が見えていた。そこに鎮座していたのは、黒いレザー質の手袋だった。

「超鋼線兵器“ウェルテルステン”の試作品。まだ使用者の安全面が保障されていないから、自分の指を落とさないように気をつけて。……まあ、あなたにそんな忠告は必要ないでしょうけれど。ジャスティス・レッドの肩書は、かつて取った杵柄はまだ衰えていないわよね」
「……昔の話だ。次に会う時は、手首から先がなくなっているかも知れないな」
「笑えない冗談だわ」
「まったくだ」
「でも──それでも、やめないのね?」
「もう後戻りはできないんだ」

同じフレーズを強く繰り返すテオドールに、女性は深々と溜息をついた。ほとほと呆れ果てたような、心底から見放したというふうでありながら、どこか憐憫と慈愛をも感じさせる、不可思議な仕種だった。

「長い付き合いなんだ。僕の性格は、よくわかっているだろう? トウカ」
「そうね。……ほんと、嫌になるほど」
「君にまでこんな危ない橋を渡らせてしまうことを、申し訳ないとは思っているんだ」
「あらあら、とんでもない口説き文句だこと」
「誰にでも言っているわけじゃない。大事な相手にだけだ」
「でも、あなたが今いちばん大事なのは“生存者”の彼女なのでしょう?」

トウカはシニカルに唇の端を歪めた。テオドールもつられて口角を上げる。

「まだ詳細はわからないから、なんとも言えないな。特殊能力、特異体質の発現は確認されているようだが、僕の“計画”に活かせる完成度なのかどうか……」
「その程度の段階なの? それならまだ“ウェルテルステン”を持ち出すほどの事態じゃないのではないかしら」
「念には念を入れておくのさ。場合によっては──生存者を“診察”している教授を襲って、死体にしてでも回収しなければならない」
「あらいやだ。物騒だこと」

飄々と肩をすくめて、トウカは軽い調子で嘯いた。

「僕たちがいるのはそういう世界だろう。どこまでも物騒で、滑稽で、残酷で──そして悲しい世界だ」

テオドールは遠い目をして言う。
その台詞には、ある種の“経験者”のみに許された重みがあった。

「そうね──そうだわ。私たちは……ヒーローなんだもの」
「今回の謝礼は、指定の口座に振り込んでおくよ。報酬は弾むから、開発課と管理課の連中にうまく言っておいてくれ」
「簡単に言ってくれるわね。それがどれだけ大変な心労を伴うのかわかっているのかしら」

棘のある口振りに、テオドールは苦笑した。

「悪いとは思ってるよ」
「まあ──私も好きでやっていることよ。努力はするわ。惜しまないわ」
「ありがとう、トウカ。感謝しているよ」
「……そういえば、ねえ、テオ」
「? なんだい」
「あなた、目が悪かったのかしら?」

テオドールは眼鏡のリムに触れた。これといって特色のない、黒縁のセルフレーム。ついこのあいだ──二週間だか三週間だか前に会った時には、かけていなかったものだ。

「いや、度は入っていないんだ」
「ふうん。伊達なの……どういう心境の変化?」
「形見なんだ」
「形見?」
「“ブルー”が使っていた」

トウカは目を少しだけ大きくした。

「七年前の化石にしては、随分と綺麗じゃない」
「大事にしまってあったからね。だけど、ずっと暗いところに置いておくのが忍びなくなったのさ」
「陽の目を見せてあげようってわけ?」
「……そうだな」
「グリーンのピアス、私物として取ってあるけれど、持っていく?」
「なんでお前が持っているんだ?」
「だって私は──あなたたちの、ジャスティスレンジャーの専属オペレーターだったんだもの。捨てられるわけがないわ」
「そうか。……俺がもらっていいのか?」
「あなた以外には渡したくないわ」

きっぱりと断言したトウカに、テオドールは顔を綻ばせた。

「やれやれ。責任重大だな」
「でもあなたピアスしたことないでしょう。穴、開けてあげようか」
「え? 今? できるのか?」
「簡単よ。ぷすっとやるだけだもの」

そう言ってトウカがポケットから取り出したのは安全ピンだった。

「……そんなものでやるのか?」
「イマドキのワカモノは大体これデビューよ」
「ていうか、なんでそんなもの持ち歩いてるんだ」
「電車で痴漢にお尻を触られたら、これで刺してやるの」
「なんだそれ。物騒だな」
「私たちがいるのはそういう世界なんでしょう?」

テオドールは声を上げて笑った。

「そうだな。そうだったな。じゃあ……頼もうかな」
「そうこなくっちゃ。そこ座って」

トウカが指し示したローラー付きのチェアに腰かけて、テオドールは背もたれに体重を預ける。肩のあたりまで伸びた彼の髪を掻き上げて、真っさらな耳を剥き出しにする。

「なるべく痛くしないでくれよ」
「さあ。保証できかねるわ」
「それちゃんと耳たぶ貫通するのか?」
「さあ。やってみないとわからないわ」
「そんな小さい穴で、ピアスちゃんと留まるのか?」
「大丈夫なんじゃない? 知らないけど」
「しっかり消毒しないと膿むんじゃないのか?」
「うるさい男ね。ビビってんじゃないわよ」

お前は高校生か。
トウカは吹き出すのを堪えられなかった。

まったく。
こんな情けない男が──どうして。
社会を混乱に陥れようと思ったのだろう。
人類を混沌に貶めようと考えたのだろう。

物騒で、滑稽で、残酷な世界に。
どうしてこんなにも──毒されてしまったのだろう。

(本当に──馬鹿なひと。馬鹿正直なひと)

針の先端を彼の耳に押し当てる手が震えるのを必死に抑えて、トウカは作業を開始する。鋭利な切っ先に抉られた傷口からは、なにが溢れ出すのだろう。なにが零れ落ちるのだろう。

それはきっと彼がかつて掲げた名前と同じ色を冠する、血腥い鉄の匂い。