murmur | ナノ
バレンタインデーに、ほとんど親子ほど歳の離れた部下からチョコレートをもらうということは、現代社会においてはさほど珍しい光景でもないのだろう。直接見たことがあるわけではないが、世論や風潮から察するにそうなのだと推測できる。そんな時代であるからして、いま俺が置かれているこの状況に浮かれて心を躍らせることはどうしても躊躇われた。目の前に鎮座するちいさな箱を見つめて、俺は困惑と焦燥が入り混じった得体の知れない感覚に脂汗を流していた。
「なに、どしたの、後藤。そんな難しい顔して」
「…………達海」
どこからともなくふと現れた達海は、いつものように気の抜けた顔でなにかを咀嚼していた。抱えている包みの雰囲気からして、それが女性からの差し入れであることは明らかだった。
「あれー、なにそれ、チョコ?」
「さっきもらったんだよ」
「誰に? 誰に?」
「………………トツキさんに」
「へー、よかったじゃん」
「よかった?」
「だって後藤、あの子のこと気に入ってんでしょ?」
臆面もなく言ってのけた達海に、俺は頭痛すら覚えて額を押さえた。
「お前はそういうことを軽々しく……」
「えー? だって事実じゃん。チャンスじゃん」
「どうせ義理に決まってるだろ」
「そう言ってるわりにはさっきから悶々としてるよね、後藤」
図星を突かれて押し黙ってしまう。達海はニヤリと悪戯っぽく笑んでみせた。
「いいじゃんいいじゃん、これでひとつきっかけはできたわけだ。アプローチしてみたら?」
「いや、でもな……これだけ歳が離れているし……」
「関係ないっしょ? 最近リスペクト婚つって年上男性との結婚が流行ってるらしいし」
「そ……そうなのか……じゃあ、ホワイトデーのお返しをどうにか……」
「ホワイトデー!? なに言ってんの後藤! 一ヶ月も置いてどうすんだよ!」
達海が食ってかかってきた。そのわけを理解できず、俺は目を白黒させるほかない。
「すぐ! すぐ行動を起こせよ! いますぐ! そんなだらだら一ヶ月も待ってどうすんだよこの根っからディフェンダーが! そんなだから独身なんだよ! 行けって! ほら!」
達海にぐいぐい背中を押され、俺はオフィスを追い出された。
いま? いますぐ? そんな無茶な。しかし機を待つばかりではうまくいかないというのも事実だろう。好機を逃さず素早く動くことの重要性を俺は知っている。せっかくのチャンスをふいにするわけにはいかない。
だったら、いま。いますぐに。
(ああ、もう──どうにでもなれ!)
腹を括って、意を決して、俺は懐から携帯を取り出すと、彼女の番号にコールした。
呼び出し音が、うるさく早鐘を打つ心臓に掻き消されて聞こえない。
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