しかし続いた母の言葉にありすは首をかしげた。


「これでやっと安心できるってもんよ」

「安心?」

「そうよ」


そういって母は姉の方を見る。


「あんたが『私は医者にはならない。後は継がないから』って言い出した時にはどうしようかと思ったわ」


どこか責めるような口調に姉は気まずそうに目をそらす。


「だって無理そうだったから」


またこの話か、とうんざりした口調に母親が食って掛かる。


「少しあきらめが早すぎない?お母さんだって中学生のときは成績いまいちだったけど、でも――」

「でも結局、今医者辞めちゃってるじゃん」


母の台詞にかぶせる形で言い放った姉にありすは驚いた。今まで幾度となく似たような会話がかわされたが、姉がこうして反抗したのは初めてだった。言葉に詰まった母親に、姉はさらに畳み掛けるように続ける。


「私は直線ルートで行くの。どうせお母さんと同じような道しかないんだから」

「お姉ちゃん!」

「どうせなんて言わないで!」


あまりの言い草に思わず咎めるような声を出したありすと、ショックを受けた様子の母親に姉はハッと意識を取り戻したように取り繕い始めた。


「ごめんごめん!とにかく、ありすにはがんばってもらわないと」


口元に浮かべた笑みは若干引きつっていたが、母はこれ幸いとばかりにありすに意識を向ける。


「そうね。あんたなら、将来お父さんやお母さんより優秀な――」


しかし、母親の台詞はまたもや遮られることとなった。


「イタリアでは禿げてる人がモテるらしいよ!?」


突如大声で言い放ったありすに、母と姉の目が点になる。居間に流れる気まずい沈黙を最初に打ち破ったのは、姉だった。


「どうしたの、いきなり」

「だからさ、ほら、」


引き気味な言い方であることも気にせず、ありすはまくし立てるように言いながら二人を無理やり立ち上がらせた。


「二人ともお腹空いてるでしょ。ね、空いてるよね?空いてないはずがないよね?当然空いてるべきだよね?ご飯食べよう。冷蔵庫の一番上の段に、ポテトサラダ入ってるから。好きでしょ、二人とも。食べてきなよ!」

「なんでそんな押しつけがましいのよ」

「いいからいいから!」


母の文句を受けながらもありすはぐいぐいと二人の背中をキッチンの方へと追いやった。
パタン、閉じた扉の音と訪れた静寂。ありすはしばらく呆然と扉を見つめたまま突っ立っていたが、やがて力が抜けたようにソファに座りこんだ。

その時、後ろでガサリと音がしたかと思うと、ありすの耳に女性にしては低めのハスキーな声が聞こえてきた。



「ねえ、イタリア人って禿げ好きなの?」


まさか、と思って振り返ると、そこには棚の上からこちらを見下ろすチェシャ猫の姿があった。猫がしゃべるはずがない。そうわかっているのに、ありすは反射的に答えてしまう。


「知らないわよ。適当に言ってみただけ」


これで会話は終了。そう示すためにソファに突っ伏してみるが、相変わらずどこからか例の声が聞こえてくる。


「そろそろ限界だね」


いや、この際『どこからか』などという曖昧な表現に意味はない。なぜなら、その声は確実にチェシャ猫のいるところから聞こえてくるのだ。しかもこの声が聞こえるのはどうやらありすだけらしい。


「何が」


話の主語がわかりつつも問えば、それさえも見透かしたような口調で答えてくる。


「話逸らすのが」


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