O N E


「ただいまー」


玄関から聞こえた母の声にありすは顔を上げた。手元には盛り付け途中のポテトサラダがある。久々に学校が早く終わったから、たまには親孝行でもしようかとつくったものだ。後はポテトサラダを器に取り分けたら完璧なのに、母親が帰ってきてしまった。ありすは返事をするよりも、早く集中して晩御飯を仕上げてしまうことにした。


「あ、おかえりなさい」


階段を上ってくる足音が消え、リビングの扉が開くと同時にありすは言った。食卓の準備はぎりぎりセーフ、ちょうど終わったところだ。


「いるなら返事くらいしてよ」

「ごめん」


憮然とした表情の母親に小さく謝りながら、ありすは手渡された上着を椅子の背に掛ける。若いころはエリート街道を突き進んできた母親は、50歳近くになった今でもどことなく若い。本業だった医者に復帰できない今は、パートに精を出している。


「夕飯どうした?」


部屋着に着替えて戻ってきた母親の言葉に、ありすは待ってましたとばかりに答えた。


「適当につくっちゃった」


さり気なさを装いつつもテーブルに乗った晩御飯一式は自信の品々だ。案の定、疲れた顔をしていた母親もそれを見て嬉しそうな笑みを浮かべた。ありがとう、と小さく呟かれる。そこでふと母親が家を見渡した。


「あれ、お父さんは?」

「急患だって。先に食べててってメールが」


家の裏側で病院を営んでいるありすの家は、父方が医者の家系だった。


「また?」


ため息をつく母親を慰めるようにありすは声をかける。


「しょうがないよ」

「大学病院とは違うものね」


昔務めていた大学病院を思い出したのか、母親は少し遠い目をしてから食卓に着いた。綺麗に並べられた料理からは美味しそうな湯気が立っている。しかし四席中二つしか席が埋まっていないのはどうにも寂しかった。


「せっかく四人分つくったのに」


父と、母と、わたしと、お姉ちゃん。今年大学4年生になる姉は最近就活で忙しいらしく、あまり姿を見ていない。


「まぁ、明日に残しとこう。お姉ちゃんは?」

「もうすぐ帰って来ると思うけど……」


時計を見るともう7時過ぎ、いつもだったらそろそろ帰ってくる時間だ。その時、一筋開いたリビングのドアの隙間からひょいと茶色い影が飛び込んできた。


「あら、ただいまチェシャちゃん!こっちおいで!」


入ってきたのは茶色のまだら模様の猫。チェシャ、と名付けられたその猫はありすが生まれたころにはもうこの家にいた。テーブルの足元をすり抜けていくのを、ありすは慌てて足を上げて避ける。なぜか昔からありすはこの猫が苦手だった。


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