マッサージ
電車を乗り継いで数時間、ようやく着いた紡のアパートの最寄り駅で出迎えられた時、ちさきはかすかに目を見張った。久しぶり、と返しながら、まじまじと紡の顔を見上げる。
きっと他人にはわからないくらいわずかな変化だろうが、長く一緒に暮らしていたちさきにはわかる。向けられた微笑には、少し疲れが滲んでいた。

「もしかして、忙しかった?」

「ああ、もう終わったけど。……なんでわかったんだ?」

「疲れた顔してたから」

「そうか?」

「自覚なかったの?」

不思議そうに目を瞬かせる紡にちさきは苦笑した。
他人のことはよく見ているくせに、どうして自分のことは疎かになるのだろう。きっとろくな食事をとっていなかっただろうし、ちゃんとベッドで寝ていたかも怪しい。なにかに夢中になると、いつもそうだ。一人暮らしをはじめてからは、余計に酷くなったような気がする。
ほんと、しょうがないんだから。

「部屋に着いたら、いいことしてあげる」

「いいこと?」

目を丸くして訪ね返され、あとでね、とちさきは唇に弧を描いた。
べつにもったいぶるようなことではないけれど、紡の声にどこか期待が混じっているような気がして、つい悪戯めいた気持ちが湧いてしまった。
訊いても答えないと悟ったのだろう、物言いたげな顔をされたが、それ以上紡が尋ねてくることはなかった。

ビルが立ち並ぶ駅前から下町へ、しばらく歩くと紡の住んでいるアパートに辿り着く。
あまり物がない部屋はぱっと見片付いていたが、机の上にだけ本や紙束が乱雑に積み上げられていた。いつもなら机の上ももっと整頓されているはずだから、本当につい最近までその暇もないくらい研究に打ち込んでいたのだろう。
あとで掃除もしてあげよう、と考えながらバッグを置き、さっそくソファーに腰を下ろして紡も隣に座らせた。

「じゃあ、手だして」

「手?」

「マッサージしてあげる」

そういうことか、と安堵したようにもがっかりしたようにも聞こえるため息をつかれ、ちさきはちょっとむっとした。

「たくさんツボがあるから、手だけでも気持ちいいんだよ」

「わかった、頼む」

宥めるような口ぶりで、紡は左手を差し出してきた。
ハンドクリームを手にとって、ちさきは包み込むように紡の手を握った。ハンドクリームを馴染ませながら、手全体をゆっくりと揉みほぐしていく。手の甲、指の間、少し深爪の指先から付け根まで一本一本、丁寧に。

「ここが目の疲れにきくツボで……こっちが肩こりにきくツボ……」

そうやって触れていると、掌の皮の硬さや節くれ立った指の形がよくわかる。ちさきの手よりもずっと大きく、指や手首も太い。

(私のとはまるで違う……男の人の手だ)

何度も手を繋いでいるのだから、大きいこともごつごつしていることも前から知っているはずのに、まるではじめて知ったみたいにどきどきする。
けれど、あたたかくて、ずっとこうしていたいくらい安心もする。互いの体温が馴染んでいくのが心地いい。

だんだんマッサージということも忘れかけ、潮焼けした手を握っているだけの自分に気付き、ちさきはぱっと手を離した。

「はい、おしまい」

変に思われていないか不安に思いながら、そっと顔を上げる。
覗き込んだ紡の目は、マッサージの効果があったのか、心地よさそうに細められていた。
ほっとして、ちさきは微笑んだ。

「気持ちよかった?」

「ああ、なんか楽になった気がする」

寛いだようなゆったりとした声にちさきは益々笑みを深めた。

「ツボの場所さえ覚えれば一人でもできるから、さっきのでわからなかったら、もう一度教えようか?」

「いや、いい」

断られ、きょとんとしていると、そっと手を握られた。指を絡められ、ぎゅっと強く繋がれる。

「疲れた時は、またお前がしてくれるだろ?」

当然のことのように言われた言葉には、どこか甘えるような響きがあった。
こういう時の紡は本当にずるい。悔しいけれど、蕩けそうな瞳に見つめられると、胸が高鳴って、思う存分甘やかしたくなってしまう。
もう、とため息をつき、ちさきは繋がれた手をきゅっと握り返した。

「ほんと、しょうがないんだから」


紡は「いいこと」と聞いて一瞬色々考えちゃったけど、ちさきのことだから期待したようなことではないだろうと思い直して、実際そうだったので安堵もしたしがっかりもした。
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