素直に
銀色の月明かりが、さざ波に揺れている。向こうの方には星屑のように海村の青い灯りが輝いていて、まるで海に夜空を溶かしたかのようだった。
月に照らされた岩場に腰を下ろし、まだ少し冷たい海水に脚を浸ける。同じように隣に座った紡の触れそうで触れない肩から体温が伝わってきて、ちさきは口元を緩めた。

「海、綺麗ね」

「ああ、綺麗だ」

たったそれだけの言葉を交わして、静かに海を眺める。穏やかな波の音だけが響いて心地いい。なにも言わず、ただこうして隣にいるだけなのに、この時間がとても大切なもののように思えてくる。
きっと見ないふりをしていただけで、ずっとそうだった。紡がそばにいてくれるだけで嬉しかった。自分が変わってしまいそうで不安なのに、安心して。
変わらないように、溢れてしまわないように蓋をしていたけれど、素直に認めてしまえば、この感情はこんなにも胸をあたたかくしてくれる。

紡も同じように感じてくれているのか、そっと手を握られた。
隣を見れば、穏やかな瞳に見つめられる。微笑み返すと、ふいに顔が近付いてきた。あっ、と思った時には唇が重なる。視界いっぱいに紡の顔だけが映って、思わずちさきも目を閉じた。
いつもより長い。ただ触れているだけなのに唇から伝わる熱に浮かされて、なにも考えられなくなっていく。
けれど、惜しむように離れた瞬間に辺りの景色が目に入って、ちさきは我に返った。

「もう、誰かに見られたらどうするの?」

「誰もいないし」

「誰かくるかもしれないでしょ」

「こんな時間にこんなとこにくるやつなんていないだろ」

そうかもしれないけど……、と目を逸らして口籠る。
誰かに見られたらと思うと顔から火がでるほど恥ずかしいけれど、キスされたこと自体は嫌ではないどころか嬉しかったせいで強く言えない。
と、大きな手で頬を包まれて、そっと上を向かされた。

「だから、もう一度」

また熱の籠った瞳が近付いてきて、返事をする前に口付けられる。それだけで抗議の意志なんて全部吹き飛んでしまった。月明かりがあるとはいえ夜だし岩陰だから大丈夫、とせめて自分に言い訳をして目を閉じる。
息が苦しい。胸が締めつけられて痛い。でも、やめてほしくない。
啄むように何度も繰り返されるうちに紡のことだけ感じたくなって、縋るようにぎゅっと彼の肩を掴んだ。

いったい何度したのか、数秒にも数時間にも感じられるような時間が経って、ゆっくりと唇が離れていく。目を開けるとまだ間近に紡の顔があって、気恥ずかしさから目を伏せた。
酸素を求めて深呼吸をすると、熱に浮かされていた頭が少しだけ冷静になる。
また流されてしまった。どうして毎回こうなってしまうのだろう。
なんだかふつふつと悔しい気持ちが湧き上がってきて、ちさきは唇を尖らせた。

「なんで、そんなにうまいのよ」

紡は不思議そうに目を瞬かせた。
自覚のないところが余計に性質が悪い。

「だって、おかしいでしょ。こんなに気持ちいいなんて……」

途中で自分でも恥ずかしいことを言ってることに気付いて、だんだんと小声になる。
ちら、と窺うように紡を見上げると、軽く目を丸くして、

「よかった」

と、口角を上げた。
そんな顔をされると、毒気が抜かれて困る。それもやっぱり悔しくて、でもなにも言えなくて、拗ねた顔を背けた。
ちさき、と宥めるように名前を呼ばれる。唇を尖らせたまま少し振り向くと、紡が妙に真面目な顔をしていた。

「俺がうまいかどうかはわからないけど、気持ちいいのは好き合ってるからじゃないか?」

「えっ……」

「こんなこと、好きなやつとじゃないと嫌だろ」

それはそうだ。どれほどうまい相手だろうと、紡以外の人となんて考えたくもない。
結局、いつも流されてしまうのは心の奥底ではそれを望んでいるからだ。そんなことはとっくにわかっている。
だから、これは素直になりきれない自分の心のせい。素直になった方が幸せだって、わかっているのに。昔から変わってほしいところほど、なかなか変わってくれない。

「それは、紡も?」

「当たり前だろ」

「なら、いい」

そっと紡の肩にもたれかかる。触れ合っていれば、余計なことを考えずに素直になれる気がした。でも、そんなのは言い訳で、ただもっと触れてほしくなっただけかもしれない。
全部見抜かれているのか、そうしたくなっただけなのか、指を絡めるように手を繋がれる。じわじわと触れ合ったところからあたためられていって、ちさきもぎゅっと紡の手を握り返した。
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