月の満ちる夜に
自家製の梅酒を口にし、ちさきはほうと息をついた。グラスの中で氷が音を立て、黄金色の水面が揺れる。それをただ見るともなしに眺めていた。

「ちさき」

「えっ……あっ、なに?」

ふいに名前を呼ばれ、はっと顔を上げる。
と、隣に座る紡がそっと顔を覗き込んできた。

「もう酔ったのか?」

「このくらいで酔わないわよ。ちょっとぼーっとしてただけ」

互いに成人してからは、よくこうして二人で晩酌をするようになった。その最中に酔ってしまい紡の世話になることはたびたびあったけれど、今日はまだ飲みはじめたばかりだ。酒が回るには早すぎる。本当にただぼんやりとしていただけだった。

「仕事、大変なのか?」

「全然平気。先輩たちもよくしてくれるし」

看護学校を卒業し看護師として働きはじめて、まだ二ヶ月。ずっと実習で世話になっていた病院とはいえ仕事に慣れたとは言い難いが、いつかは慣れなければならないことなのだから心配されるほどではない。大丈夫だと胸の前で拳をつくってみせる。
紡はしばらくじっとちさきを見つめていたが、やがて目を伏せ、ゆっくりと梅酒を煽った。

「明日の夜、時間あるか?」

「とくに予定はないけど」

「連れていきたいところがある」

ずいぶんと急な話だ。たまたま予定が空いていたからいいものの、夜勤もあるのだから、そういうことははやめに言ってほしい。
もう、と唇を尖らせて文句を言う。けれど、悪いと口では謝りながらも紡に悪びれた様子はない。勝手なんだから、とちさきは小さくため息をついた。

「それで、どこに行くの?」

「秘密」

かすかに口角を上げ、紡はどこか悪戯めいた声音で囁いた。余計に気になるが、きっと何度訊いても同じ答えが返ってくるだけだろう。昔から大人びているように見えて、妙に子供っぽいところがあるのだ。
それでも紡のことだから変な場所ではないだろう、と諦めて、ちさきはその時を待つことにした。

そして翌日、夕飯を終えたあと、紡に連れられて着いたのは港だった。灯台に照らされた埠頭には漁船がいくつも停まっている。その中にある勇の船にまっすぐ向かっていくものだから、ちさきは目を丸くした。

「船に乗るの?」

「泳いでいけなくもないけど、少し遠いし、夜だからな」

紡は勇の船に乗り込むと、ほら、とちさきに手を差し出した。戸惑いながらもその手をとって、ちさきも船に乗る。
こんな夜に、しかも船でどこに行くつもりなのだろう。この辺りの海ならそれなりに詳しいつもりだけど、見当もつかなかった。
聞き馴染んだエンジン音が鳴り、舳先で波を切って進んでいく。夜の海は静かだ。波の音と船の駆動音だけが聞こえる。船端に腰かけ、なんとはなしに空を見上げると、丸い月が浮かんでいた。

「今日は満月なんだね」

「ああ、いいタイミングだった」

なにがいいのだろう、と首を傾げるが、これから向かう場所に関係することであるなら教えてはくれないだろう。尋ねるのはやめて、ちさきはぼんやりと月を眺め続けた。
紡は横目でちさきを見やると、足下の鞄から水筒を取り出した。湯気の立った緑茶をコップに注ぎ、ちさきに差し出してくる。寒そうにでも見えたのだろうか。

「ありがとう」

両手で受け取り、ちさきはそっとコップに口をつけた。六月とはいえ、潮風は少し肌寒い。それほど身体が冷えている自覚はなかったが、熱い茶がじんわりと身に沁みた。

いつの間にか船は湾を抜け、外海へと踏み入れていた。岸の灯りがずいぶんと遠くなって、少し不安になる。
海の人間とはいえ、湾の外にでたことはほとんどない。子供の頃、まなかと珊瑚を探しにでかけて迷子になった時くらいだ。その時迎えにきてくれた光のことは大切な思い出になっているけれど、外の海の印象は恐ろしいものになってしまって、以来わざわざ湾からでようとは思えなかった。
ちさきはそっと紡を見つめる。先の見えない暗い海なのに、紡は迷いなく前を向いていた。

「まだ?」

「もう少し」

その言葉通り、それから数分もしないところで紡は船を止めた。
けれど、そこにはなにもない。戸惑いながら辺りを見回してみても月明かりに照らされた海がどこまでも続いているだけだ。

「紡……?」

「ここから少し泳ぐ」

紡は腰を屈めると、足下の鞄から小さな籠に入れられた御霊火を取り出した。汐鹿生では見慣れた青い炎がゆらゆらと揺れ、辺りを仄かに照らしている。ちさきは目を瞬かせた。

「御霊火……?」

「人工の灯りと違って魚を刺激しないから」

ほしかった答えはそれではないのだけれど、目的の場所に着くまでは明かしてくれるつもりはないらしく、紡は御霊火を持ってそっと海に飛び込んだ。
ちさき、と促すように呼ばれる。底の見えない暗い海に心もとなさを感じて一瞬躊躇ったが、その声に背中を押されてちさきも海に入った。

「暗いから離れるなよ」

紡のそばにいくと、そっと手を繋がれた。慣れ親しんだ体温にほっとする。うん、と頷き握り返せば、紡は前を向きゆっくりと泳ぎだした。
手を引かれるまま水を蹴って進み、途中で海底に降り立つ。御霊火に照らされた外海の底は汐鹿生の周りと違って整備されておらず、月の光を遮るように海草が鬱蒼と生い茂っていた。茂みの中に潜んだ魚の目が御霊火に煌めく。昔、まなかと迷子になったところもこんな感じだった。

「紡はこの辺りにもよく来るの?」

「調査で何度かな」

「そっか。今じゃ紡の方が海のこと詳しいね」

つと、目を伏せる。
すごいな、と思う。大学院に入ったばかりなのに、紡はもう立派な研究者だ。

「この先だ」

その声に、はっと顔を上げて前を見る。
と、茂みを抜けて、ぱっと視界が開けた。頭上から月明かりが差し込む。
そうして、目に飛び込んできたのは――

「珊瑚礁……?」

月の光に照らされた砂地には色鮮やかな珊瑚が広がっていた。大小様々な珊瑚が紫陽花のように寄り集まり、その合間を多くの魚がゆったりと泳いでいる。
子供の頃に探し回って、結局見つからなかった光景がそこにあった。

「これを見せたかったの?」

「ああ、それと……はじまるな」

珊瑚礁を見つめ、期待を孕んだ声色で紡が呟いた瞬間、珊瑚の枝の先から薄紅色の粒が飛び出てきた。すべての珊瑚から一斉に小さな粒が次々と産み出され、あっという間に夜空に散りばめられた星屑のように辺り一面に広がっていく。幾千もの薄紅色の粒は満月の光に輝き、ゆりかごに揺られるように海を揺蕩った。

「綺麗……」

海の中に星空が生まれたかのような、あまりにも幻想的な光景に目を奪われる。
と、隣でかすかに笑う気配がした。

「やっと笑った」

「えっ……?」

安堵したように零れた声に紡を見上げる。
紡は穏やかな眼差しでちさきを見つめていた。

「最近、元気なかったろ」

「それで、連れてきてくれたの?」

「俺がお前と見たかったってのもあるけど」

なにか熱いものが胸の奥底から込み上げてきて、ちさきは紡の肩に顔を埋めた。
そっと頭を抱き寄せられる。あたたかな手で髪を撫でられて視界が揺れた。

「この前、担当してる患者さんが亡くなったの」

ぽつり、とちさきは震える声で零した。

「病院じゃよくあることだし、慣れなきゃいけないんだけど、悲しくて……せめて、なにかできることがもっとあったんじゃないかって」

高齢で、一日のほとんどを寝ているような人だった。きっともうどうしようもなかったのだろう。それでも、なにかできることがあったんじゃないかと、仕事をこなすことばかり必死な自分でなければなにか違ったのではないかと、痛みと後悔が胸を締めつける。
病棟で働く以上は何度も経験することなのだから、割り切るべきなのだろう。でも、どうしてもできない。

「無理して慣れるものじゃない。泣きたい時は泣けばいい」

「でも……」

「悩むのは、お前がそれだけ真剣に向き合ってるからだろ。それはきっと悪いことじゃない」

「……だと、いいけど」

ただただ優しく慈しむように頭を撫でられる。
何度経験したって、この痛みと後悔に慣れることはないだろう。どうしたって強くはなれない。きっと何度も同じこと繰り返してしまう。
それでも、あたたかな腕に抱かれて、ちさきはそっと顔を上げた。

「ああ、本当に綺麗だね」

「そうだな」

揺れる月の光の中で、いくつもの命が星のように生まれ、輝き、揺蕩っていく。それは泣きたくなるほど美しい光景だった。
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