そしてまた春がくる
重い目蓋を持ち上げた紡は、朝日の眩しさに目を眇めた。外から聞こえる鳥の声が、また微睡みそうになる意識の覚醒を促す。布団の中で横になったままそちらに目を向けると、障子を開け放った窓辺にちさきが佇んでいた。
まだパジャマのままだから、ちさきの方も起きたばかりなのだろう。それでもしっかりと目を覚ました横顔は、なにを見ているのか、柔らかに綻んでいた。

「なにかあるのか?」

上体を起こしながら尋ねると、ちさきが振り返った。「おはよう」と笑いかけられて、紡も「おはよう」と返す。
ちさきはいたずらを思いついた子供のような顔で手招きをした。

「ちょっとこっちにきて」

「ああ」

誘われるままに布団から出て窓辺に向かうと、ちさきは庭を指差した。

「ほら、見て。桜が咲いてる」

その先にあったのは、三年前の春を最後に花が咲かなくなったはずの桜の木だった。ずっと殺風景だった枝が淡い薄紅に彩られている。ぬくみ雪の白ではない、あたたかな色だった。

「狂い咲きか」

「最近暖かかったから、春がきたと思ったんだろうね」

海村が冬眠から目覚めてからはぬくみ雪も降らなくなり、ずっと冬に閉ざされていた世界も少しずつ気温が上がっていた。暦の上では初秋だが、あの桜にとっては久方ぶりの春なのだろう。

「ちょっと見にいってみない?」

「ああ」

着替えて外に出ると、庭の桜だけではなく、周りの木々も薄紅色の花を開かせていた。さやさやと風に揺れて、桜の花弁が舞い散る。暖かな陽の光に照らされて、はらはらと静かに。
少し前までぬくみ雪に覆われていた景色に、今は薄紅色の花弁が降り積もっていた。

「すごい、本当に春がきたみたい」

感嘆のため息を零して、ちさきは桜の花を見上げた。薄紅色の花を映して、よく晴れた日の海のように青い瞳が輝いている。
その横顔に、四年前はじめて地上の桜を見た彼女の顔が重なった。

あの時は、こんな憂いのない笑みを浮かべていなかった。「ぬくみ雪みたい」と散る花を見つめる瞳は切なげに細められていた。
きっとちさきが思い出していたのは地上に降る冷たいぬくみ雪ではなく、海に降る輝くぬくみ雪だったのだろう。

舞い散る花弁の中、追想に揺れる横顔は儚げで、紡は目を奪われた。そして、気付いた時には「綺麗だ」と口から想いが零れていた。
それを耳にしたちさきは最初目を丸くしたが、すぐにまた桜の花を見上げて「うん、桜、綺麗だね」と微笑んだ。
桜じゃなくてお前が、とは言えなかった。言ってしまえば、ちさきが自分の前からいなくなるような気がした。

その予感は恐らく間違っていなかった。あの頃気持ちを伝えていたら、帰る場所をなくしたちさきから仮初の居場所まで奪うことになっていただろう。
一緒に暮らすようになって、当たり前のように隣にいるようになったが、それはけして当たり前のことではなかった。ほんの少し均衡が崩れるだけで、壊れかねないものだった。
けれど、今は――。

「綺麗だ」

薄紅色の花弁が舞う中、紡はまっすぐにちさきを見つめて言った。
ちさきは微笑みを浮かべたまま紡を見返した。

「うん、綺麗ね、桜」

「いや、桜じゃなくてお前が」

「なっ……!?」

本心をそのまま伝えると、ちさきは目を見張った。ふるふると唇がわなないて、頬が赤く染まっていく。

「ばか! せっかく咲いたんだから、ちゃんと花見て、花!」

照れを誤魔化すようにちさきは叫んだ。ほら、と花の方を向かせようと、紡の肩を押す。それに従って紡も桜を見上げた。触れた手が離れていくことはなかった。
暖かな陽の光の中で、薄紅色の花弁が優しく降り積もっていく。
きっと来年も、こんなふうに二人で桜を見上げるのだろう。
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