この海で生まれた
改札の向こうの線路と壁にかけられた時計を交互に確認する。何回見ても針は一定の速度でしか進まないし、電車も予定よりはやく来ることはないとわかっているのに、待っている時間はどうにも落ち着かない。いつ来るかはわかっているのだから焦る必要はないと、何度自分に言い聞かせても無駄だった。紡が帰ってくる日はいつもこうだ。
はやる鼓動を抑えるように、ちさきは胸に手をあてて深く息を吐いた。

また時計を一瞥すると、ゆっくりと針が一歩前進する。同時に遠くから電車の音が聞こえてきて、ちさきは線路の方を見やった。
ホームに入り、電車が停止する。開かれたドアから出てきたその人にちさきは手を振った。

「紡、おかえり」

「ただいま」

紡はだいたい月に一度、鴛大師に帰ってくる。とはいえ普段は大学があるから一日二日しかいられないが、今回は二年の後期が終わり長い春休みに入っているおかげで二週間はいられるらしい。
久しぶりに会えたことが嬉しくて、ちさきは笑顔で紡を出迎えた。紡もほっとしたような顔をする。その反応に変わったところはない。だが、なにか違和感があって、ちさきは首を傾げた。

「なにかあった?」

「なんで?」

虚をつかれたように紡は目を丸くする。そこに誤魔化しの色はなかった。

「なんだろ? なにか変な感じがしたんだけど、気のせいだったのかな」

それか、本人に自覚がないだけで少し疲れているのかもしれない。紡は昔からそういうところがある。ひとのことはよく見てるくせに、自分のことになると無頓着なのだ。なにかに夢中になっている時はとくにそうで、食事や睡眠を疎かにすることもよくあった。
先日まで三橋教授の手伝いで学会の準備に追われていたそうだし、少し無理をしたのかもしれない。家に着いたら、ゆっくり休んでもらおう。

「今日の夕飯は紡の好きなものつくるね。なにがいい?」

「ちさきがつくるものならなんでも」

「もう、それが一番困るって、いつも言ってるでしょ」

「じゃあ、魚の煮付け」

「それなら、買い物しなくても大丈夫かな」

このまま直帰することにして駅を出ると、紡がそっと手を繋いできた。久しぶりに触れたぬくもりにほっとして、ぎゅっと握り返す。
家路を辿る間は互いの近況を報告し合った。電話はほぼ毎日していたが、こうして顔を合わせると、話したいことがたくさん湧いてくる。郊外にある家は駅から少し離れているが、紡と一緒のおかげで、行きよりもずっと短く感じられた。

家に着き、「ただいま」と玄関の戸を開ける。
居間で新聞を読んでいた勇が「おかえり」と出迎えてくれた。

「これ、土産」

紡はボストンバッグから四合瓶を取り出し、勇の目の前に置いた。勇は瓶を持ち上げ、ラベルに目を通す。
酒であることはわかるが、見慣れない銘柄で、ちさきは首を傾げた。

「それ、なに?」

「この前、学会で行ったところの地酒。少しくらいなら、呑んでもいいんだろ?」

「ああ」

頷く勇の表情に変化はなかったが、どことなく嬉しそうに見えた。
医者に言われて普段は控えているが、元来酒好きなのだ。倒れる前はよく晩酌をしていたし、ちさきと紡に酒の楽しみ方を教えてくれたのも勇だった。

「じゃあ、さっそく夕飯の時にだすね」

ちさきは勇から酒瓶を受け取って、台所まで持っていった。冷酒で呑むのがいいらしい、と紡が教えてくれたので、冷蔵庫に仕舞う。夕飯の時間には、ちょうどいい頃合いになっているだろう。
ついでに冷蔵庫の中身をざっと確認して夕飯の献立を決める。ご馳走とはいかないが、魚の煮付けをはじめ酒に合うものはできそうだ。

冷蔵庫のドアを閉めて居間の方に目を向けると、紡が勇となにか話していた。気遣うような声で勇に話しかける紡はいつもと変わりないように見える。最初に感じた違和感などもうどこにもないし、特別疲れているようにも見えない。
あれは結局なんだったのだろう。ただの気のせいだったのだろうか。
引っかかりは覚えたが、居間に上がって二人の話に混じるうちに、それも頭の片隅へと追いやられてしまった。


******


クリーニングにだしていた衣類を受け取りに、ちさきは駅前に来ていた。
昨日までに終わっていたら紡を迎えにいくついでに取りにいけたのだが、こればかりはクリーニング屋の都合もあるから仕方ない。タイミングが合わなかっただけの話だ。

受け取った袋を手に提げ、店を出る。
その時、駅の方に目を向けたのは本当に偶然だった。なにか気になるものがあったわけでも、まして虫の知らせがあったわけでもない。ただ顔を上げたら視界に入っただけだった。

駅前の錆び付いた白い時計の下。そこに女性が一人立っていた。
よく待ち合わせに利用される場所だ。それだけなら、特別気にとめなかった。しかし、その人の横顔に見覚えがあって、ちさきは目を見開いた。

見間違いかと思った。
まさか、あの人がここにいるはずない。

実際に会ったのは七年前の一度だけ。その時だって遠くから会釈をしただけで、ちゃんとした挨拶すらしていない。けれど、その人がうつる写真は毎日のように目にしていた。

信じられなかったが、もし本当にあの人だとしたら、このまま通り過ぎてはいけない気がして、恐る恐るその人の元に向かう。緊張で喉が詰まるのを自覚しながら、ちさきはその人に声をかけた。

「あの、紡……くんのお母さん、ですよね?」

戸惑った様子で女性が振り返る。ようやく見えた瞳は青みがかった黒で、ちさきは内心でやっぱりと呟いた。

「そうですけど、あなたは……?」

「比良平ちさきです。おじいさんと紡くんには、いつもお世話になっています」

ああ、と困惑に歪んだ顔に理解が浮かんだ。
こんなふうに直接会って話したことはなかったが、数回だけ紡への電話の取次ぎで話をしたことはあった。はじめて彼女からの電話を取った時に、簡単にだが、地上に取り残されて勇の家に置いてもらっていることを告げていたが、ちゃんと覚えていてくれたようだ。

だからといって、彼女がちさきのことをどう思っているのかまでは読めなかった。今になって不安が溢れてくる。声をかけてしまって、本当によかったのだろうか。海が嫌いだというこの人にとって、息子が血縁でもない海の人間と同じ家で暮らして、しかも恋仲となっている事実はどう映るのだろうか。
考えはじめると、下げた頭をなかなか上げることができなかった。

「あなたが、比良平さん……」

確かめるような呟きに、そっと顔を上げる。こちらを見つめる目に嫌悪やそれに近しい感情はなかった。ただ、ちさき以上にどうしていいかわからないようだった。

「すみません、突然話しかけてしまって」

「いえ、……こちらこそ、父が入院した時はあなたに任せてしまってごめんなさい。本来なら私がすべきことだったのに」

「そんな、私にとっておじいさんは恩人で、もう他人じゃありませんから」

互いにぎくしゃくとするなかで、その言葉にだけは自然と感情が籠った。

「今日は、どうしてここに?」

「父と紡に会いにきたんです」

どこか後ろめたそうな返答は予想していたものと同じだった。けれど、どうして今になって、という疑問は残る。
それを察したのか、彼女は言葉を続けた。

「本当は、ずっと、そうしなければいけないと思っていたんです。父が倒れて、あの子が来なくなった時から。でも、今更どんな顔で会えばいいのかわからなくて、踏ん切りがつかないまま時間だけが過ぎていって……」

ぽつ、ぽつ、とつっかえながら語る声は、言い訳のようにも懺悔のようにも聞こえた。

「昨日、守鏡駅で紡を見かけたんです。あの子は気付いてなかったでしょうけど。その時、何故か、今なら会えるんじゃないかと、今会いにいかなければ一生会えなくなるんじゃないかと、そう思って」

そこで、ちさきはようやく気が付いた。昨日、駅で紡を出迎えた時の違和感の正体に。
そうだ。あの時の安堵したような顔は、母親に会いに出掛けた紡が家に帰ってきた時に、いつも一瞬だけ浮かべていたものだ。勇が倒れてすぐの頃から、紡は母親に会いにいかなくなっていたから、忘れてしまっていたけれど。
紡もこの人に気付いていたのだ。気付いていながら、なにもなかったことにしたのだ。

「でも、だめね。海を見たら、怖じ気づいてしまって。父の見舞いにいこうとした時も、そうでした」

自嘲するように口元を歪めて、彼女は話を終えた。
なにを言えばいいかわからず、ちさきは答えを探すように海があるはずの方角を見やった。ここからでは立ち並ぶ建物に遮られて見えないが、穏やかに青く輝く海と、ゆっくりと沖を行く漁船が目蓋の裏に浮かぶ。
今、二人は海上で漁をしているはずだ。埠頭から呼べば、きっと来てくれるだろう。その先のことは、正直わからないけれど。

「あの、一緒に会いにいきませんか」

「いえ、遠慮しておきます。もうすぐ電車も来ますし」

彼女が時計を見上げるのと同時に、守鏡行きの電車が向こうからやってくるのが見えた。なんてタイミングだろう。

「なら、せめて伝言だけでも」

「それもやめておきます。なにを言えばいいかわかりませんし、あの子もいい気はしないでしょうから」

ありがとう、と最後に軽くお辞儀をして、彼女は背を向けた。引き止めることはできなかった。
駅に入っていく小さな背を、鴛大師から離れていく電車を、ちさきはやるせない気持ちで見送った。


******


「今日、駅前で紡のお母さんに会ったの」

夕飯の時に紡の母親のことを告げると、二人ともかすかに目を見張り、言葉を失った。

「二人に会いにきたんだって。結局、会えないまま帰っちゃったけど」

勇はすぐに表情を戻して、ただ「そうか」と頷いた。
紡はずっと苦々しげに唇を引き結んでいた。

誰も口を開かないまま食事を終える。
それからは、ほとんど事務的な言葉しか交わせなかった。もともと勇も紡も口数の少ない人だから、そこまで珍しいことではないが、今日はどうにも気まずい。こんなことは久しぶりだった。
あの人のことは二人にとってそれほど繊細で、おいそれと触れてはいけない部分なのだろう。だが、そうとわかっていても、自分の胸の内に秘めていていいこととは思えなかった。

なんとか紡に話しかけることができたのは、入浴を終えてからだった。
いつものように濡れた髪で階段を上る紡に「髪、拭こうか?」と訊くと、「頼む」と首にかけていたタオルを手渡された。想いが通じ合ってからはよくあることだったが、普通に話すきっかけになりそうでほっとする。

けれど、紡の部屋でそっと彼の髪を拭いはじめると、またなにを話せばいいのかわからなくなってしまった。なにか言わなければ、と思うのに、肝心の言葉がでてこない。いったい、自分は紡になにを言いたいのだろう。
答えがでないまま、タオルで髪を拭う手だけは止まらず動く。痛めないよう、優しく包み込むように。
そうしてあらかた水気がとれた頃、ふいに紡が振り返った。わずかに険の滲んだ目がちさきを射抜く。

「お前は、俺にどうしてほしいんだ」

ちさきは息を呑んだ。
ずっと、なにか言わなければいけない気がしていた。でも、本当は紡になにかしてほしかったのだろうか。母親のことを伝えることで、なにかあることを期待していたのだろうか。たとえば、紡と勇とあの人が普通の家族に戻れるようなことを。
考えて、そうではないと思った。そうなったらいいのに、とは思うが、それを紡に願うのは違う気がする。もし、紡に願うことがあるとすれば、

「後悔は、してほしくないかな。私は会えなくなった時、すごく後悔したから」

一瞬だけ、紡の顔が歪んだ。険の消えた目が伏せられる。
と、膝の上に置いた手にそっと潮焼けした手が重ねられた。確かめるように強く握り締められ、まっすぐな瞳に見つめられる。

「後悔はしてないし、これからもするつもりはない」

「……そっか」

それでいいの、とは訊けなかった。それでいいよ、とも言えなかった。
紡の答えはきっと本心だ。その事実がどうしようもなく寂しい。紡はそうでなかったとしても。
身勝手な物悲しさを押し込めようと、ちさきは紡の肩に額を押しあてた。
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