勝手な感傷
蛇口を捻って水を流し、ちさきはシンクの中の食器を洗いはじめた。
水の音、泡立てたスポンジで食器を擦る音、食器を置く音。なるべくうるさくしないようにとは思っても、生活音は静かな家の中に響く。
そこに、床板の軋む音が加わった。洗い物の手を止めて振り返ってみると、廊下の方から紡が顔をだした。

「ちょっと街に行ってくる」

「いってらっしゃい」

背中を向けた紡を見送り、ちさきは洗い物を再開する。離れていく足音はすぐに聞こえなくなった。

なにをしにいくのかなんて、一年も一緒に暮らしていれば訊くまでもなかった。わずかな変化ながら、気乗りしないような顔で紡が守鏡まで行く用事なんて一つしかない。
母親に会いに行くのだ。

紡の両親は守鏡に住んでいて、紡はだいたい月に一度顔を見せに行く。
何故離れて暮らしているのか、詳しい事情は知らない。わかっているのは、紡が自分の親を疎んじていることだけだ。

洗い物を終わらせて、居間に上がる。箪笥の上にはいつものように幼い紡とその両親の写真が飾られていた。
礼服に身を包んだ三人は、どこにでもいる普通の家族に見えた。父親は子供の肩に手を置いて、母親は子供と手を繋いで。子供の表情の固さもカメラに緊張しているのだと思えば、なにもおかしなところはない。本当にどこにでもある普通の家族写真だ。
子供が親と話しもしたくないと思っているようにはとても見えない。この時は本当にそう思っていなかったのかもしれないけれど。

「気になるか?」

背後からかけられた問いにちさきは息を呑んだ。振り返ると、隣の部屋の襖を開けて勇がじっとこちらを見ていた。
気にならないと言えば嘘になる。だが、簡単に踏み込んでいいこととは思えない。肯定も否定もできず押し黙っていると、勇は囲炉裏の前に腰を下ろした。

「俺の娘は海が嫌いだった」

勇は訥々と語りはじめた。ちさきは戸惑いの表情で、遠い目をした勇の横顔を見つめた。
娘とは、紡の母親のことだろう。写真に映る母親は海の人間と地上の人間の混血の証である青みがかった黒い瞳をしていた。

「昔は海村と地上の軋轢が今よりも酷かったからな。混血というだけで奇異の目に晒され、いわれのない扱いを受けることも多かった。それであいつは海も海の人間の血も嫌になって、この町から出ていった」

その気持ちはわからないでもなかった。ちさきも美濱中学に転校してきた当初は偏見に晒され、何度も嫌な思いをさせられた。今ではそんな扱いを受けることもなくなって、地上の人も本当はいい人たちだとわかったが、もしずっとあんな扱いを受けていたら、きっとなにかを憎みたくなっただろう。紡の母親にとっては、それが海であり、自身に半分流れる海の人間の血だったのだ。

「それからはずっと連絡一つなかったが、六年前に突然息子を預かってほしいと手紙を寄越してきた。海が好きだから、海の近くに住まわせてやってほしいと。それが息子のたった一つの望みなのだと」

「それで、紡がこの家にきたの?」

「ああ、一人でな」

親が愛したものを憎んで、憎んだものを愛して、置いていって、置いていかれて。
いったい、どんな気持ちだったのだろう。紡も、勇も、海が嫌いなあの人も。
悲しんだ? 悩んだ? 傷ついた? 怒った? 悔やんだ?
勇の横顔はいつもの仏頂面で、なにを考えているのか読み取れない。それを尋ねることも、今のちさきには難しかった。


******


サヤマートへ買い物にでかけた帰り道の交差点で、ちさきは紡を見かけた。
もう帰ってきたのか。きっとまた、ろくに会話すらしなかったのだろう。
近付いて声をかけようとする。が、その前に紡が振り返って、ちさきは少し驚いた。

「おかえり」

「ただいま」

隣に並ぶと、紡が安堵したように息を吐いた気がした。べつに意味はないかもしれないし、そもそも気のせいだったのかもしれない。
けれど、昼間の気乗りしない顔を覚えているせいで妙に気になった。

道を渡ろうとすると、紡が当たり前のようにサヤマートのビニール袋を持ってくれた。いつものように、ありがとう、と礼を言う。
見上げた顔は、もういつもと変わらなかった。いつもと違うのは、ちさきの方だ。そして、それはやはりいつものように紡に見抜かれた。

「なにかあったのか?」

「……今日、おじいちゃんから聞いたの。紡のお母さんのこと」

一瞬、足が止まる。紡はかすかに目を張った。
波のない海沿いの道に風の音だけが響く。すぐにまた足を動かしはじめるが、その足取りは先程よりも重かった。
やはり、あまり触れられたくないことだったのかもしれない。
ごめん、と顔を俯かせる。と、紡が眉を寄せた。

「べつに謝るようなことじゃない。隠してたわけじゃないし、じいちゃんもお前には話しておいた方がいいと思ったんだろ」

「うん」

「もういいんだ、あの人のことは。俺は海を好きになったことも、ここにきたことも後悔してない。だから、お前がそんな顔することない」

「うん、そうだね……」

それが事実なのか強がりなのか、ちさきにはわからなかった。
ちさきが思うほど、紡は気にしてないのかもしれない。紡にとって、母親のことはもう煩わしいだけのものでしかないのかもしれない。
だから、これは勝手な感傷だ。痛みも、寂しさも、ちさきが勝手に感じてしまっただけのものだ。

紡はそれ以上なにも言わなかった。ちさきもなにも訊かなかった。
二人は黙ったまま、ただ並んで家路を辿った。
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