繰り返される夜に
脱衣場を出たちさきは廊下に満ちた冷気に身を縮めた。
せっかく湯船でゆっくり温まってきたのに、冷えた床板に触れる足裏から体温が逃げていく。カーディガンの前をぎゅっと引き合わせ、温かい茶でも飲もうと台所に足を向けた。
だが、紡がまだ風呂に入っていないことを思い出し、一歩踏み出したところで足を止める。

「紡ー、お風呂上がったよー」

二階に向かって声をかけるが、返事はなかった。聞こえなかったのだろうか。

「紡ー?」

「こっちだ」

近くから返ってきた声は、紡ではなく勇のものだった。
首を傾げながらも、足早に居間に向かう。そこには晩酌中の勇と横になって眠る紡がいた。
返事がないと思ったら、こんなところで眠りこけていたのか。

「紡、こんなところで寝たら風邪ひくよ」

声をかけてみるが、なんの反応もない。
肩を揺すってみても、かすかに身じろぐくらいで、起きる気配はなかった。

「そうなったら、もう起きんだろ。放っておけ」

慣れた口振りで言うと、勇は徳利と盃を片付けるために立ち上がった。きっと、これまでもよくあったことなのだろう。
ちさきは二階に毛布をとりにいき、紡にかけてやった。本当は布団まで運べたらよかったのだけど。せめて冷えないよう湯たんぽを用意しようと立ち上がったところで、ちょうど勇が台所から戻ってきた。

「あっ、おじいちゃん。湯たんぽ用意しようと思うんだけど、おじいちゃんも使う?」

「ああ、頼む」

ちさきは箪笥から湯たんぽを二つ取り出し、台所に下りた。やかんに水を汲み、火にかける。ついでに自分も火にあたると、少しずつ寒さが和らいだ。
そのうちに、笛のような音が沸騰を告げた。
火を消し、湯たんぽの中に湯を注ぎ込む。それをタオルにくるみ、一つは勇に渡した。

「今日は寒いから、身体冷やさないよう気を付けてね」

「ちさきもな」

「わかってます。それじゃ、おやすみなさい」

「おやすみ」

勇が隣の部屋に入ったのを認めてから、ちさきは紡にかけた毛布の中にそっと湯たんぽを入れた。
その時、紡が声を漏らした。起きたのかと思ったが、寝返りを打っただけで、続くのは寝息のみだった。

畳の上なのに、驚くほどよく寝ている。勇の言うとおり、もうどうしたって起きないだろう。
それでも、もう少しだけ待ってみようか。ちょっと目が覚めたとしても、布団にいかなきゃだめだよと諭して送ってあげなければ、ここで寝直してしまいそうだし。
時計を確認すると、九時を少し過ぎたところだった。あと一時間くらいは待ってみてもいいだろう。

少しずれた毛布をかけ直し、改めて寝顔を眺めてみると、気持ちよさそうに寝息を立てていた。こうしてみると、少し幼く見える。出会ったばかりの頃は大人びた人だと思っていたはずなのに、その面影はどこにもない。
たった半年前のことのはずなのに、一緒に暮らすようになってから紡の印象は随分と変わってしまっていた。あの頃は知らなかったのだ。意外と抜けていることも、頑固で子供っぽいところがあることも。

(可愛いって言ったら、怒るかな)

いくつか反応を考えてみるけれど、どれもしっくりこなくて、実際に言って確かめてみたい気持ちになった。起きたら、本当に言ってみようか。
悪戯めいた考えに、ちさきはふふっと笑みを漏らした。


******


骨が軋むような痛みに、紡は目を覚ました。この頃はよく起きる痛みだ。しばらくすれば治まるものとわかっているので、息を吐いてやりすごす。

薄暗い闇の中、まだ重い目蓋を上げると、囲炉裏が目に入った。どうやら、居間で眠ってしまったらしい。
脚を動かすと、硬いものにあたった。もう冷めてしまっているが、この感触は湯たんぽだろう。祖父かちさきが毛布と一緒に用意してくれたようだ。
起こしてくれてもよかったのに、と思ったが、以前「お前は起こしても起きん」と祖父にぼやかれたことを思い出し、今回もそうだったのだろうかとぼんやりした頭で考えた。

自分の部屋に戻った方がいいのはわかっているが、いまだ目蓋は重く、起き上がるのも億劫だ。まだ夜は明けてないようだから、このまま寝直そう。
と、寝返りを打った時、視界に飛び込んできたものに紡は跳ね起きた。

(ちさき!?)

見間違えるはずがない。暗闇に浮かんだ白い顔も、かすかに煌めいたエナも、横たわった柔らかそうな身体も、畳に広がった長い髪も、確かにちさきのものだ。

(なんで、ちさきがここに……)

毛布をかけてくれた後、そのまま隣で寝てしまったのだろうか。
ちさきも毛布にくるまっているのは自分で用意したのか、祖父がかけてやったのか。どちらにしろ、あまりにも無防備すぎる。

いくら慣れてきたとはいえ、この状況は流石にまずい。せめて自分だけでも自室に戻ろうと立ち上がった時だった。

「――って」

まって、と言われたような気がした。ただの寝言だ。だが、泣きそうな声に躊躇いつつも腰を下ろしてしまう。
ちさきの顔を覗き込んでみると、苦しげに眉が寄せられていた。閉じた目蓋から涙が溢れて頬を濡らしている。

いつも、こうなのだろうか。
おふねひきから半年が経って、少しずつ笑うようになっても、ずっと夜は一人で泣いていたのだろうか。

なにかを探すように、頼りなくちさきの右手が伸ばされる。思わず掴むと、離すまいとするようにぎゅっと握り締められた。
本当に求めている相手が自分ではないことを知りながら握り返す。少しだけ寝顔が穏やかになったように見えるのは、そうであってほしいと思っているせいか。
一人で泣かないでほしいと。笑っていてほしいと。
自分の無力さを噛み締めながら、冷たい夜にただ祈った。


******


夢を見ていた気がする。いつも見るあの日の悪夢ではなく、あたたかくて優しい夢で、ずっと続いてほしいと思ったのに、意識が覚醒するにつれて遠ざかっていき、目を開けた時にはもうどんな夢だったのかすら忘れてしまった。
そのことに寂しさを覚えながら寝返りを打って仰向けになると、きまりの悪そうな顔をした紡が映って、ちさきは目を見張った。

「悪い、起こした」

「えっ……な、なんで、紡が?」

狼狽えながら上体を起こしたところで、ここが自分の部屋ではなく居間であることに気付いた。
ほんの少しだけ紡が起きるのを待っているつもりだったのに、いつの間にか寝入ってしまったらしい。
時計を見ると、いつもの起床時間で、今度はちさきがきまりの悪い顔をした。

「あの、毛布は紡が?」

「いや、多分じいちゃん」

「そっか、あとでお礼言わないと」

そこで、あくびを噛み殺していた紡がはっとして「ありがとう」と言った。
一瞬なんのことかわからなかったが、すぐに毛布と湯たんぽのことだと気付き、「どういたしまして」と返す。

「なんか、眠そうだね」

「あまり、寝られなかったから」

「畳の上で寝るからだよ」

「お前が言うのか」

呆れた声音で言い返され、ちさきは言葉に詰まった。完全に自分のことを棚に上げた発言だった。
恥ずかしくなって顔を俯かせる。と、あのさ、と躊躇いがちに尋ねられた。

「いつも、夢を見るのか?」

「もしかして、寝言言ってた?」

そうでなければいいと願ったのに、無情にも紡は首を縦に振った。
いったいなにを言ってしまったのだろう。いつもの悪夢でも困るが、心地のいい夢の中で妙なことを口走っていたらと思うと、顔から火がでそうだった。

「お願いだから、忘れて。ちょっといい夢見てただけだから」

慌てて頼むと、紡はどうしてか目を丸くした。しげしげと見つめられ、思わずたじろぐ。すると、紡は「よかった」と穏やかに目を細めた。
その微笑に夢の中で感じたぬくもりを思い出して、いつもよりあたたかい右手を胸の前で握り締めた。
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