雨に溺れる
翌朝、紡は部屋の前を通る足音で目が覚めた。
足音を追いかけるように部屋から出て階下を見下ろすと、ラフなTシャツとショートパンツに着替えたちさきが靴を履いていた。

「もう行くのか?」

階段を下りながら声をかけると、弾かれたようにちさきが振り返った。

「うん。朝ご飯と、一応昼ご飯もつくっておいたから」

「そうか。……無理はするなよ」

「うん、いってきます」

立ち上がり、飛び出すように玄関から出ていく背を紡は眉を寄せて見送った。
居間の時計を確認してみると、いつもの起床時間よりも一時間ほど早かった。きっと朝がくるのが待ちきれなかったのだろう。そもそも気持ちが逸って眠れなかったのかもしれない。前はどうしても冬眠できず、目が覚めてしまうことを嘆いていたのに。その根底にある感情は変わらないのだろうけど。
会いたい、帰りたい、と泣くいつかの声が耳の奥でこだました。

二度寝する気にはなれず、顔を洗って着替える。しばらくして起きてきた勇とちさきがつくった朝食をとり、「俺も探してくる」と紡も家を出た。

船で海にでて、沖に向かう。夏とは思えぬほど潮風は肌寒く、羽織るものを持ってくればよかった、と腕を擦った。
ちさきは大丈夫だろうか。家を出る時は半袖で、なにも持っていないように見えたが。海の中は地上よりも冷たいのだから、忠告してやるべきだった。昨日、ちさきがしてくれたように。

すでに沖にでていたいくつかの船は、漁をしながら光たちを探しているらしかった。「昨日、旗が見つかった場所にはもうなにもなかったから、別の場所を探してみよう」と漁協の人たちが大声で話し合っているのが、すれ違いざまに聞こえた。
浜には美海とさゆの姿が見える。きっと光たちが流れ着いていないか探しているのだろう。紡が知らないだけで、ちさき以外の地上で暮らす海の人間も海に潜って探しているのかもしれない。

こんなふうに総出で光たちを探すのは二年ぶりだった。
おふねひきが終わってすぐの頃は、地上の人間も、地上の人間と結婚して海村を追放された海の人間も、海にでて行方のわからない海の子供たちを必死に探していた。だが、いくら探しても手がかり一つ見つからず、徒に時間を経るごとに探す人は減っていった。地上の人間も、海の人間も。去年まではよく海に潜っていたあかりも、子供が生まれてからはそちらにかかりきりで、一度も海にでていないらしい。紡自身も、そうした人間のうちの一人だった。
だが、みんな諦めたわけではなかったのだ。進展のない状況に疲弊し、途方に暮れていただけだった。あの日の異変も、海の人たちのことも、誰も忘れてなどいなかった。
その事実は嬉しい。けれど、何故か妙に落ち着かなかった。
いつもと違う空気に感化された、というわけではないと思う。ただ、なにかが喉に引っ掛かっているかのような違和感がある。その正体は掴めないが、あまり気分のいい感覚ではない。それを振り払うように紡は船を走らせた。

しばらく進むと、汐鹿生の真上に辿り着いた。船を止め、海底を覗き込むように身を乗り出す。
こんなよく晴れた日には、澄んだ水面の向こうに村がうっすらと透けて見えることがあった。波の間に白い屋根が光を反射して、波の音のように遠く近く歌声が響いてきたのを今でもはっきりと覚えている。
だが、今ここに広がっているのは底の見えない青い闇だけだった。
以前見た時と、なにも変わっていない。
あのおふねひきの夜から、すべての海村は鎖された。海の人間であっても潮流が邪魔をして近づけないどころか、その姿すら見ることができないらしい。まるで海神が冬眠した人々を守るかのように、海村は外界から完全に隠されていた。
あの美しい場所を覆い隠す闇は、あまり見ていたいものではない。虚ろな青い闇から目を逸らし、紡は海に網を投げ入れる。だが、二年前と同じように、その網にはなにもかからなかった。


******


なにも見つからないまま正午を知らせるサイレンが鳴り、紡は一度家に戻った。
「ただいま」と声をかけると、居間で新聞を読んでいた勇が顔を上げた。「ちさきは?」と尋ねると、「まだ帰っとらん」と返される。予想はしていたが、思わず紡は顔を顰めた。
夜になるまで、休まず探し続けるつもりなのかもしれない。二年前もそうだった。
だが、どうしようもなかった。仕方なく、ちさきがつくり置きした昼食を温め直して勇と食べる。朝もそうだったが、今日はやけに静かな食卓だった。
食事を終えて皿を洗う。普段はちさきが全部やろうとして手伝わせてもくれないが、以前は紡がやっていたのだから慣れたものだ。すぐにすべて片付け、また外に向かう。
だが、玄関の戸を開けたところで、「やめておけ」と勇に止められた。

「じきに雨になる」

勇は空を見上げて言った。その視線の先を追うと、海の向こうに雨雲が見える。今日は風が強いから、すぐにこの辺りまでやってくるだろう。
素直に頷き、紡は家の中に戻る。
昨夜のちさきほどではなくとも、少しくらい焦燥に駆られてもよさそうなものだが、不思議とそんな感情は湧いてこない。ただ、ちさきのことがより心配になった。

今のうちに雨戸を閉めておく。
薄暗くなった家の中は、ひどく静かに感じられた。雨戸の向こうから、風に揺れる梢の音だけがやけに大きく聞こえてくる。
この家は、こんなにも静かだったろうか。
郊外にひっそりと建つこの家に、町で暮らす人々の声や生活音は届かない。聞こえるものといえば、鳥や虫の声と風の音くらいだ。紡も勇も寡黙な性質だから、賑わうようなことはけしてなかった。それなのに、この静けさが気になるのは、きっとちさきがいないせいだ。

ふと、紡は玄関を見やった。少し待ってみても、その戸が開かれ、「ただいま」と柔らかな声が聞こえてくることはない。
きっと夜まで……いや、本当に夜になったら帰ってくるのだろうか。光が見つかったら、汐鹿生に帰れていたら、ちさきはもうこの家にはきっと帰ってこない。
どくん、と心臓が大きく脈打った。

そんなのは嫌だ。
この家に帰ってきてほしい。
ずっと隣にいてほしい。
俺の前からいなくならないでほしい。

――だがそれは、シシオのやつらが戻ってこなければいいと思っているのと、同じことじゃないか?

脳の理性的な部分が、冷ややかに告げる。
そんなことはない。そんなことまでは考えていない。
そう否定したかった。だが、できなかった。
傷口を見て痛みを自覚するように、その醜い望みは確かに自分のものだと、否応なく理解させられた。


******


外から聞こえた雨音に、我に返る。
窓の外を見ると、すでに空は灰色の雲に覆われていた。雨粒がガラス窓を叩いて滴っていく。
それを認識した時には、自然と足が動いていた。玄関に向かい、傘を手に取る。

「迎えにいってくる」

「風呂、沸かしておく」

勇の言葉に頷いて、紡は外に出る。まだ小雨だが、すぐに本降りになるだろう。
傘を差して、海沿いの道に続く坂道を下りていく。だが、そこからどこに向かえばいいのかわからなかった。ちさきがまだ海の中にいるのなら、紡にはどうすることもできない。エナを持たない人間には、手の届かない領域だ。
それでも、ちさきの姿を探して海沿いを歩く。動いていないと、余計なことを考えてしまいそうだった。

雨はしだいに激しさを増していく。目に映るものすべて雨に煙っていく。
ぼやけていく景色の中、埠頭の辺りに影が見えた。引き寄せられるように、その影に近付いていく。しだいにその輪郭がはっきりとして、紡は駆け出した。

「ちさき……」

海へと続く階段で雨に溺れるように蹲っていたのは、やはりちさきだった。
冷たい雨に打たれ震える肩に傘を差す。名前を呼んでも、ちさきは振り向かない。雨音に紛れるように、嗚咽が聞こえてくる。かつては彼らと通った道で、海と地上の挟間で、ちさきは一人で泣いていた。
きっと、なにも見つからなかったのだ。また帰れなかったのだ。
期待はただの期待のまま、彼女の心を切り裂いただけで終わった。

「ちさき」

名前を呼んで、手を差し伸べ続ける。それ以外のことは、なにもできなかった。
だって、今胸中を占めるのは安堵だ。嗚咽を聞くと胸が痛むのに、ちさきが地上に戻ってきたことに、どうしようもなくほっとしている。
こんな自分に、いったいなにが言えるというのか。慰めを口にしたところで、白々しく響くだけだろう。

「ちさき」

やがて、ちさきが顔を上げた。海水なのか、雨なのか、涙なのか、わからないほど濡れた顔が諦めたように歪んで、冷えた手で紡の手を取る。
それでも、いまだにひどく息が苦しかった。
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