君に決めた
黒のインナーの上に、まだ一度も袖を通していないパーカーをはおる。
青地に白のラインが入ったこれは、母さんが今日のために仕立ててくれたものだ。
動きやすくて着心地もいい。流石母さん。
赤地に黒でモンスターボールが描かれたキャップを跳ねた茶色の髪を抑え付けるように被り、オレは姿見の前に立った。
このキャップにして正解だった。服によく合っている。
気分がよくなって、オレは鼻歌を歌いながら窓を開けた。
春の日差しは暖かく、頬を撫でる風は潮の香りを運んでくる。雲一つない青空にはマメパトの群れが飛んでいた。
旅立ちの日にぴったりの快晴だ。
「ミスミー!」
1階から母さんに名前を呼ばれた。
この名前は父さんがつけてくれたものだ。女みたいなのが玉に瑕だが、嫌いではない。
「母さん、何か用ー!」
部屋のドアを少し開け、顔だけ出して問い返す。
「あれ、届いたわよー!」
あれって、……あれか!
オレは慌てて階段を駆け降りた。
******
「母さん!アララギ博士から届いたってほんと!?」
壊さんばかりの勢いでリビングのドアを開けたオレを、母さんとタブンネのももが苦笑して迎えた。
「ちゃんと届いてるわよ。ほら、テーブルの上に置いてあるでしょ」
母さんが目線で示した先に目をやると、緑のリボンで飾られた赤い箱がテーブルの上にあった。
「あの中にオレのポケモンがいるのか」
「タブンネ」
ももよ、その相鎚は間違ってないか。
何とも言えない面持ちで見つめると、ももはきょとんと首を傾げた。
そうだよな、お前に悪気はないもんな。タブンネの鳴き声がそれだから、仕方ないんだよな。
いまだ不思議そうにオレを見上げるももをわしゃわしゃと撫でてやる。
ももは気持ちよさそうに目を閉じた。
オレが生まれるずっと前から母さんのパートナーをやってるももとは、14年の付き合いだ。どう撫でてやればいいかは熟知している。
そのまま撫でる手を耳の裏から背中まで滑らすと、くすくすと笑い声が聞こえた。
手を止めて顔を上げれば、母さんがオレ達を見て笑っていた。
「あんまりにもいつも通りだから、今日旅に出るなんて実感が湧かないわね」
「そんなことないさ。オレはずっとこの日を楽しみにしてたんだから」
父さんと母さんが語ってくれた旅の思い出。それはどんなおとぎ話よりも輝いていて、いつしかオレもポケモンと旅に出たいと望むようになった。
けれど、旅が出来る年齢−−明確に決まっているわけではないが、だいたい10歳以上が通例−−になった頃から、イッシュでポケモンが奪われるという事件が頻発し始めた。おかげで何度か旅の話が持ち上がるも、大人達に反対されて全ておじゃん。特に、旅に出る時は一緒にと約束した2人の幼馴染のうちの1人、ベルの父親の剣幕はすごかった。
それでも、長年の説得の甲斐があったのか、みんなの中で事件が風化してきたのか、ようやく旅をする許可を貰えた。しかも、その餞別にと近所に住むポケモン研究者のアララギ博士がポケモンをくれるという。
どれだけこの日を待ち望んだことか。
「正直言うと、今すぐ旅に出たくて仕方ないんだ。チェレンやベルを待ってる時間が惜しい」
「そうでしょうね。あなたはいつも、『父さんや母さんみたいにポケモンと旅に出るんだ!』って言ってたから」
母さんは少しだけ寂しそうに遠くを見つめた。
父さんは仕事でホウエンにいるし、オレも今日旅に出るから、もも達がいても寂しいものがあるのかもしれない。
「母さん……」
何か言わねばと口を開いた瞬間、甲高いドアベルの音が鳴り響いた。
くそっ、タイミングの悪い。
「誰かしら?」
「チェレンだよ」
「そうかもしれないわね」
母さんは立ち上がり、玄関へと向かった。
絶対にチェレンだ。
あいつ、間が悪いし。
約束の9時には30分も早いが、幼馴染の真面目な方のチェレンはいつも約束の時間より早く来る。そのうえ、今日は念願のポケモンを貰えるから、逸る気持ちを抑えられなかったんだろう。
逆に、幼馴染のマイペースな方のベルはこんな日でも遅れてくるんだろうが。
予想通り、母さんはチェレンを連れて戻ってきた。
「よお、チェレン」
「おはよう、ミスミ。アララギ博士から届いたポケモンは?」
くいと右手の中指で眼鏡を上げたチェレンは落ち着いているように見えるが、実はそわそわしているのが幼馴染の勘でわかった。
赤いラインの入ったTシャツも青いジャケットも、黒のズボンも着てるのを見たことないから、この日のために買ったんだろう。
まあ、オレも他人のこと言えないか。
「これだ」
オレは赤い箱を持ち上げた。
チェレンの眼鏡の奥の瞳が嬉々として輝く。
「この中に、僕らのポケモンが入ってるんだね」
「ああ」
「タブンネ」
だから、ももは相鎚のタイミングが悪い。
「早く中を見たいけど、ベルが来るまでは我慢しないとね」
「そうだな。でも、あいつはどうせ遅れるだろうし、オレの部屋でジュースでも飲んで待ってようぜ」
「まさか、今日に限ってそれはないと思うけど」
「いや、あいつはそのまさかだろ」
だって、あのクイーン・オブ・マイペースのベルだ。
いつも最低30分は遅れてくるあいつが時間通りに来るとは思えない。
「ないと思いたいけど、否定は出来ないな。まあ、どのみち約束の時間まで30分はあるから、ミスミの部屋で待つのはいい案だね」
「じゃあ、チェレンはオレの代わりにこれ持って上に行っててくれ」
「わかったよ」
チェレンに箱を渡し、オレはキッチンに向かった。
冷蔵庫から2リットル入りのサイコソーダのペットボトルを取り出し、ももが出してくれた2つのコップに適当に注ぐ。
「母さん、昨日のパウンドケーキの残り、チェレンに出してもいいよな?」
「いいけど、ベルちゃんの分も残しておくのよ」
「わかってるって」
実は2等分する気満々だったけど。
残り少ないパウンドケーキを3等分する。
トレイの上にサイコソーダを注いだコップ2つとパウンドケーキを2切れ、それからフォークを2つ乗せた。オレは手掴みでもいいんだけど、チェレンがうるさいからな。
「じゃあ、ベルが来たらオレの部屋に来るように言っといて。あと、パウンドケーキも出してやって」
「まかせなさい」
「タブンネ」
ももよ、相鎚のタイミングはわざとか?