Verweile doch | ナノ

Act.2 渡り鳥 -01



遠くで子供達の遊んでいる声が聞こえ、はっと顔を上げる。
先ほどまで高い位置にあった筈の陽は、気がつけば西の空に沈み込んでいて、この日比谷公園に日暮れ時の匂いを風が運んでいた。
少しだけ背伸びした洋装の小さな女の子は、先ほどまで一緒に遊んでいた和装の男の子と離れ、母親の手に引っ張られながら公園を後にしたのが見える。あの子らは良くこの公園に遊びに来ては、こうして日暮れに別れる。と言う事は、もう六時を回ったところなのだと憶測が立てられた。

秋も深まる頃。煮詰まった仕事の息抜きをしようと早朝から外に出たのは良いが、お昼を摂る事も忘れて長い昼寝を始めてしまっていたようだ。仕事は夜にするようにしているから問題はないが、あまりにも昼夜が逆転した生活を送っていると家の皆に心配をかけてしまうと思い、一人反省した。

「やあ、こんばんは。文乃ちゃん。」

「こんばんは、チャーリー。」

そうして私の夜は始まる。
ベンチを一人分のスペースができるように詰めて、相も変わらず道化師のような含み笑いを浮かべるチャーリーを出迎えた。お邪魔するね、と横に腰を下ろしたチャーリーとこんな風に話をするのも、もう随分と慣れた事になった。

ひと月前…真夜中のマジックショーで彼とあった時は、警戒されていたのを良く覚えている。実際に腹を割って話をすれば、驚く事に彼はいろいろな時代を旅して回っているらしい事が分かった。それなら何処か不思議な雰囲気を纏っているのもうなずける。成熟した大人の成りをしているのに、何処かあどけなさが残る仕草。ちぐはぐで、曖昧な人だと思った。
それからと言うもの、こうして時間を見ては話し込んで、いろいろな時代の人の話を聞かせてくれる。それを私はいつも、読み聞かせを待ちわびる子供のような目で見ているのだそうだ。

「ああ、そうそう。始めに一言言っておかなきゃいけない事があったんだった。」

「どうした?」

「僕はもうしばらくはここを離れるよ。また帰ってくるつもりだけど、それが来月になるか数年後になるかはまだ分からない。だからお別れの挨拶をしようと思ってね。」

何時ものようににこにこと微笑んだ道化師は、少しだけ寂しそうに見えた。きっとそれは彼にとっては簡単に隠せる表情なのだろうけど、あえてそうしなかったと言う事は、少しくらいは私が信頼に値する人間で居られていると言う事だろう。私は笑顔で返した。

「残念だが、元々満月が来るまでと言う話だったからな。
次ぎにくるとき私がこの世界にいるかは分からないが、その時はまた話し相手になってくれると嬉しい。」

「ああ!もちろんさ!
それに、次に来る時は僕の大好きな女の子も連れて来るつもりなんだ!
その子とも仲良くしてくれると嬉しいんだけど…」

「ああ、『芽衣ちゃん』か。それは楽しみだな。
仲良くなれるかは分からないが、仲良くしたいとは思うよ。」

頭の隅で、顔も知らぬ芽衣ちゃんを考える。チャーリーは会う度に必ずこの子の話を話題に上げるから、よほど好きなのだという事が伺えた。物の怪が大好きな、大食いで優しい女の子なのだそうだ。

「ありがとう、きっとなれるよ。
じゃあ、お別れの前にとっておきのショーをプレゼントしよう!」

そういってベンチから立ち上がると、粛々と私の前に手を差し出す。私はその手を掴んで引いてもらうと、そのままいつも彼がショーをしている場所までエスコートされる。

不定期に開催されるこの夜の奇術ショーは、今夜も幻想的に、静かな日比谷公園の奥深くで、人知れず行われていた。










始めの方は散々夜中に帰るなと家主からお叱りを受け、あまりにも遅いと探しまわられたのはもう半月も前の事だったと思う。
毎晩のように遅くに帰り、そしてピンピンした様子で玄関に立つ私を、すっかりと呆れ返ってしまった林太郎を始めとした森邸の住人は、今ではすっかりあきらめた様子で「なるべく早く帰ってこい」とだけ言うようになった。私の身を心配されると言う行為にあまり慣れていなく、それでもやはり彼ら物の怪を優先としてしまう申し訳なさが入り交じり、今では遅くとも帰宅時刻が八時を回らないように心がけていた。

「ただいま帰りました。」

「おかえりなさい。」

丁度階段から降りて来た春草は、私の帰宅を知るなり気のない返事を返してくれる。彼も彼で、当初は(素描時以外)非常に煙たがられていたが、今では自然と一緒にいる時間が長くなっていた。お互い必要最低限に話をしない質や似ている空気を持っているためか、隣に居やすく感じているのだろう。同じサンルームに居て、互いに黙々と別の事をしていても全く苦にならない。そんな関係が心地よくもあった。

「そうだ、文乃は知ってた?
今日、突然家の工事をしたんだけど。」

「工事?いや……。」

「やあ、お帰り文乃。
ちょうど良かった、お前に見せたいものがあるんだ。来なさい。」

サンルームの戸が開くと、家主が顔を出す。まだ軍服のままで居る事から、林太郎も帰宅直後だったようだ。心なしか饅頭茶漬けを召し上がる時のように弾んでいるように見える。
彼はさっさと一階の奥へと進んでいく。私と春草はその様子に互いの顔を見合わせ、後に続いた。

ついたのは一階の唯一の空き部屋である。厠の隣にある空き部屋。設計的には侍女…フミさんの様な給仕の方に設えられる位置にある部屋だが、フミさんは別の部屋を設えてあるために空きとなっている。
林太郎はそこの前に立つと、待ちわびていたと言う様子でそこを開け放つ。

「!これは…!」

「どうだい?気に入ったかい?」

その部屋に広がっていたのは、タイルが敷き詰められた床に、大量の湯。浴槽のように造られた大きな桶。今の時代には存在しない筈の、家庭用風呂がそこには存在していた。

「す……ごい…!
すごい!これは一体どうしたんだ!?」

「うんうん、予想以上の喜びようで僕も奮発したかいがあった。

実はかねてより、お前の体の洗い方を危惧していたのだ。
部屋で髪を洗うと水浸しになってしまうから洗面所で冷水……というのは、心遣いこそ嬉しい。しかし医者としてあまりにも見過ごせなかったからね。
流石に帝国ホテルのように洋式のバスタブやシャワーを付けるのには色々と用意が追い付かないが、これくらいなら可能だろうと知り合いを当たって造ってもらったのだ。」

「でも……でも!この湯はどのようにして張ったんだ!?
フミさんにこれ以上仕事を増やす訳には…!!」

「まあ、それは全く問題ございませんよ。
最近は文乃様が家の事を沢山手伝ってくださる甲斐あって、丁度手持ち無沙汰でしたから。」

お勝手から出て来たフミさんはにこにこと破顔した顔を向けた。
この家主は、本当に何から何まで規格外の事をやってくれる。私は少しの申し訳なさと、多くの感謝で林太郎に頭を下げた。












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第二章突入いたしました。一章は主に文乃さんの生活面に大きく触れていきましたが、第二章から本格的に物語が動き出します。(といいますか、一章はこの章を描くための地固めと言う意味合いが強いです。)
管理人は相変わらず趣味の範囲で楽しくこの連載を書いていますので、歴史を勉強している方からすれば誠に遺憾な内容になっているかも知れません。間違っているところは是非是非ご指摘頂きたく存じます。

と前座を申しましたところで、早速お風呂について少し雑談でも。
新設されたお風呂は「木桶風呂(鉄砲風呂)」と言いますが、家庭用のお風呂が本格的に普及するのは今日の日本より50年前、戦後以降のお話しになります。前に作中で少し触れましたが、明治時代の庶民は普通に大衆浴場…銭湯へと足を運んでおりました。個人でお風呂を持てる経済力がある人は別でしたが、銭湯は江戸時代から続く習慣でした。……もっとも、始めの「銭湯」と言うのは混浴でございまして、男女が別々に分かれたのは開国して政府が厳しく取り締まってからのようです。
ちなみに、シャワーとバスタブが西洋で誕生したのは19世紀の話。お風呂と比べて随分歴史は浅いですよね。(それまでは水浴びをする事自体悪い事とされていました。)

ところで、春草さんや鏡花ちゃん、音二郎さんは普通に銭湯へ行くとして、おそらく藤田さんや八雲さんは個人のお風呂(シャワー)。鴎外さんだけ行水を行っていますが、その理由についても詳しく触れていきたいと思います。一章15話で少し触れていますが、もう少し詳しく。
鴎外さんは本業がお医者さん。ドイツへ留学した際に名のある衛生学の学者さんにご教授頂いたと言う文献が残っております。そこで知った、食や銭湯の衛生の悪さにすっかりと感化されてしまい、果物は必ず火を通すように、そして入浴は行水へと変えていきました。(鴎外さんの子供は、リンゴは焼きリンゴ以外家では出してもらえなかったとか!!)
しかし当時の人からすればお風呂に毎日入ること自体がすごく珍しいので、寧ろ鴎外さんはこの上なく清潔であったと言えます。毎日入浴するようになったのは高度経済成長期からですから。
それにしても、行水とは。行水の歴史は平安時代からだそうですが、お風呂が普及した時代の明治からしても何とも古風ですよね。こうして今日も管理人はPSPの前で褌姿の鴎外さんに一人吹き出しています。



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