Verweile doch | ナノ

Act.1 白い鴉 -22


エリスのもとに再び戻って、二人で帰路に着いた。時間が時間だから急いで帰らねば。本当はショーを見に来ていた紳士やお侍に礼を言いたかったのだが、また今度にしよう。

「あ、待って、お嬢さん!」

呼び止められて振り向けば、奇術師がこちらへ駆け寄ってくる。慌てた様子なことから、足を止めざるを得なかった。

「なにか?」

「お嬢さんの名前を教えてくれないかい?
僕は松旭斎天一。……というのは芸名だから…。
そうだな…チャーリーだよ。」

松旭斎天一という名にピンとくるものがあったが、それを頭の隅に追いやる。目の前のチャーリーと名乗る人物に右手を差し出し、自分も名乗った。

「私は篠原文乃だ。
チャーリー。今宵は素敵なショーをありがとう。」

チャーリーはその綺麗な白髪を揺らしながら私の手を取ると、取り繕った笑顔のまま言葉を続けた。

「僕もすごく楽しかったよ。今度改めてお礼をさせてもらうよ。
ところで、君はいつからここへ?」

その真剣な雰囲気に、ただならぬ気配を察する。直ちにこれは長くなりそうだと悟った私は、改めて日を置くことにした。

「……ん、そうだな。つい最近越してきたところだ。
君と話をしたいのは山々なのだが、生憎先を急ぐ。
チャーリー、日を改めて伺ってもいいか?」

彼はしばらく無常のまま黙り込んだ。私の手を握る力が少しこもったように感じ、私を逃がさないとでも言っている気がした。少し間が空いて、ぱっと手を離したチャーリーは、明るい声でいいよ、と頷く。

「分かったよ。なら、また会おう。僕は次の満月までは大体ここにいるから、いつでもおいで。」

その笑顔に曇も陰りもなくて、私は少しだけ背筋が伸びるのを感じた。今までたくさんの物の怪に出会ってきたが、チャーリーと名乗るこの人物は、悪意も敵意も感じなければ、その笑顔が好意なのかも判断できずにいた。

「ああ。ではまた、夜に。」

私はにこりと笑顔を返すと、エリスに行こうと急かして自宅へ急いだ。



*



最後にはエリスに手を引かれる形で森邸にたどり着いた私は、玄関先で待っていた林太郎に駆け寄られてやっと帰宅したのかと気づいた。いつの間にかエリスの手は離れていて、彼女は駆け寄った林太郎の後ろでにこにこ笑っている。

「どこに行っていたんだい?帰りが遅いから探しに行こうと思っていた所だ。」

「……はあ、っ、すま…!」

「ああ、こんなに息を切らせて…。
おまえは体力が無いのだから、あまり僕に心配をかけさせないでくれ。」

歩けるかと問われ、まだ落ち着かない動悸のまま林太郎に掴まって歩いた。サンルームに入ると、怪訝そうな顔で何やってるの、と聞く春草に席を譲られる。少し呼吸が落ち着いてくると、改めて自分の体力のなさに呆れかえる余裕が出来てきた。

「すまない。
ここに来てできた友人にマジックショーに誘われたのだが、存外時間がかかってしまってな。帰るのが遅くなってしまった。」

「友人!てっきりお前は人間が嫌いなのかと思っていたが…そうか友人か!
凄いではないか!こんなに早く友人ができるとは。」

妙なところをついてくる林太郎。友人は人間ではないから、人知れず後ろめたい気持ちが湧く。一方でマジックショーの意味がわからないといったふうな春草。まだ少し鼓動が早いが、私は立ち上がって夕食にしようと切り出した。





フミさん作る美味しい和食――少しづつ量が増えているのは単なる気の所為ではあるまい――を平らげ、自室に湯を張った桶を持っていく。こうして手ぬぐいで体を拭くことが今の妥協案だ。髪は朝起きたら一階に降りて冷水をかぶるのである。不幸中の幸いか、この時代には石鹸(シャボン)が存在するのでそれをシャンプーに代用する。このままではいつ風邪をひいてもおかしくないかも知れないが、林太郎から聞き及んだこの時代の銭湯事情を間に受けてしまった以上、あそこに足を運ぶ勇気はないのである。

浴衣を身につけて寝台に倒れこんで目を閉じると、一日の疲れが重力よりも重くのしかかってくる。疲れた体とは裏腹に、冷静な頭はこれからのことや今の状況などを考え出す。そういえば、私が消えてもう三日が経つわけだが、現代ではどうなっているのだろうか。机の上に溜めた翻訳の仕事や読みたい本、置いてきてしまった優しい私の家族たちはどうなっているのだろうか。心配しているだろうか。仕事は……あの出版社からはもう来ないだろうな。向こうからしたら神隠し…いや、失踪したんだ。ともすれば……、

『文乃。』

鈴を転がすようなエリスの声が耳朶を撫でる。ぎしりとスプリングが沈むようなことは無いが、静かに彼女が脇に腰掛けたのがわかった。今まで考えていた何もかもを思考の海に沈めて、ゆっくりとまぶたを開いた。

『何か、悲しいことでもあった?』

横になる私を見て微笑を浮かべるエリスは、花のように可憐で、その表情は儚い。へらりと困ったように笑うエリス。小さく横に首を振って、また暗い笑顔を浮かべた。

『また、今度。』



そう言って、瞼にキスをひとつ落として、エリスは闇に消えてしまった。






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